2002年6月18日(火) 日本対トルコ

2002年6月18日(火) 日本対トルコ 0-1

昨日見た、代表の練習風景で「おなじみ」のラインのあげさげのシミュレーションをトルシェがやっている場面を「マスコミむけに」公開していた。

で、そのときはその場面になんのコメントもなかったのだが、翌日18日には『トルシェはそのばめんで怒鳴り声をだしていた』というのである、ひとはいろいろな考え方をするから、相川はこう考えた『トルシェ、部下の選手の態度がおかしいねとやっと、昨日確信的に思ったのではないか?』

このことについて少し考える。

相川「すでにチームの内部では、選手が監督に相談なく、自分たちでとくに守備のやりかたを決めている」としていることはすでに書いた。

解説者、評論家も元サッカー人ゆえに,ベルギー戦以降守備の方法がちがった、ことは見えている、けれど、そこからさき、そのことを「どう表現したらよいか、わからないで」あるものは、選手が「成長した」などと「きれいごと」をいうし、あるものは「トルシェの考えではなく、選手が自分でやっている」なんていういいかたをしたりしている。

相川としてはそこはかんたんで、選手は「グラウンドではどうせわからないのだから」自分たちの「感じるままに」やればいいんだということにすでになっていると,思っている。

選手には、選手の言い分があるだろう「もっと、前から自分たち(=選手)の意見をとりいれてくれていればよかったのだ」というように、である。

またトルシェにすれば『自分が監督で最終責任をとるのだ』という思いでこれまた「(選手のいうところを)聞いてやらぬわけでもないのに、誰が言って来たのか」というようにおもうかもしれない。

西野オリンピック代表のときに、現在の代表の中核メンバーは西野が指示したところを「へいへい,聞きながら」実際の「グラウンドでは、ちがうことをやろう」とピッチへでていった、前科がある。

いい気な気分で「テレビで、偉そうなことを言っている,松木がVerdyの監督解任直前グラウンドでの、選手へのMeetingのあと、いったん退席、そののちクラブ首脳がでてきてこういったという」「かならずしも監督のいうところを、(選手は)きかなくてよいんだ」と、

こういうことは、ままあることではなく「しょっちゅうだ」自分でもしょっちゅうである。

おそらく「そういうことが今代表のなかで、おきているのだろう」ただし、そこでフランス人のメンタリテー(トップマネージャーとしての)と、日本人(部下としての)メンタリテーの差異がでてくる。

アイルランドが大会前にもめたことを想起してもらいたい、そこで帰国してしまった、ロイ・キ-ンと言う選手は、マンチェスターユナイテッドの中心選手で、けっしてちんぴら選手ではない。 だが遠征にいくときアイルランドサッカー協会の役員はファーストクラスで、選手がエコノミーなのはおかしいとか(そういうクレームをつけるのは悪民主主義日本ではむしろ当然のように聞こえる)キャンプのグラウンド状態がおかしい、とかクレームをつけてもめたということになっている、実際は、監督がかれらからすれば生粋のアイリッシュではないから、それを口にした、とか真相はわからない。

ただこう言うことは言える、ヨーロッパのほとんどの国は階級社会である。

役員が飛行機で「良い座席に座る」のは当然である、監督に選手がさからっていけないのは,当然である。
そういうことがあたりまえの社会である、そういう社会である。

トルシェも、フランス階級社会の心性をもって育ってきた「やつ」である、どういう階級・階層のもとで成長したか知らないが、そのことが日本社会の会社組織でのトップマネージャー論とまた微妙にずれた、フランス人らしい「マネージャー論理」に固執しているかもしれない。

他方(日本)選手の心性のほうは、これは語る興味もない。
あるいは会社にいる、みなさんのほうが、私よりはるかにくわしいだろうひとつだけ相川が指摘したいのは、「たぶんこいつら軽い」と思える、『トルシェの言っていることにしたがってたら、負けちゃうよ、だったらいいじゃん、グラウンドにでたら好きにやろう』だろうその一つ前の、対話とかそういうステップはなかったろう。

企業における、課長(の権威は)もしそれに部下が反抗してきて、課長のほうが負けたら、組織全体に無秩序が広がるという「恐怖」をベースに維持されようとしていく、が、チームでの監督,選手の関係はそういうものではない。

勝つか、負けるか、勝つことだけ、それだけが,監督を保証する。

さて先発メンバーを聞いてびっくりである。

サントスを左のウイングハーフで先発である。
勝っているチームを変えない、という言い伝えがある、サッカーである。

どうしてサントスを前半から使うか?ダバラが右からやってくる「のに」である。

それもトルシェ「らしくない」トルシェのいままでなら、すくなくとも、左のウイングに守備ができるやつを置くはずなのにね。

西沢をワントップに置くというのも、すごいといえばすごい、というのは西沢にとってはこれが最初のワールドカップである。

サッカーの世界では(他のスポーツでも同じだろうが)練習でトップコンデションをねらって準備する、しかし実際のゲームでフイット「する」ためには、そのゲームそのものを経験するしかない、だからこそゲームに出す。 出てとにかくゲーム勘をグラウンド上で修正していく、ことが大事だからである。

ベンチにいてもベンチにいることに「慣れる」だけなのはあたりまえである。

ゲームがはじっまたが、実際には小野が、ダバラをマークするかたちでサントスは最初からあがっているから2トップみたいなものだ。

西沢がボールを受けに「ひいてきても」にトルコのラインはつきあわない。
ここにトルコの問題がある。
ラインをくずして、西沢をたたきにいければそこで日本は終わってしまうのに、そうしないので、西沢→ハーフというおとし、から日本何かペナエリアの前で、攻撃のかたちをつくっているかのようである。
が、そういうことに直面したことがないかのようで、この利を生かせない。

だがクロスやら、やむをえない放りこみに対して、ワントップ西沢ではうまくいかないつまりサントスがクロスをはやくいれてもオンリーワンしかいないということである。

他方トルコの攻撃は中盤にあまり神経はつかわない。ロングかドリブルがよいやつは、前に前にドリブルしてくる。

そうこうしているうちに、コーナーをダバラにノーマークでいれられる

また、ハカンシュクルの頭がききだす、ハサンも「はやい」明神ではつききれない。

小野が、ダバラをマークで、ひくので、パスがどうしても遠い、つなげばまた西沢が高いボールに自信をもってせってくれないので、最後のまと的なアイデアがない。
その点トルコはトップの頭がある。
トルコひいて日本攻められない。

後半

ハーフタイムに、サントスひっこめにくいね、と思っていた、ボール半個分不運だが、『ブラジル人的な、こずるさを出してしまう』ところも見える、「おいおいおまえは、ロナウドか?レフェリーは吹かないよ」というところで勝手に、倒れてみたりする。

だがあきらかに、前半の攻撃、日本はサントスの1系列、西沢の1系列とばらばらで、サントスの攻撃にまわりはどうするのか?西沢にはどうするのか?ハーフもからみにくい。

サントスは自分で、とことん「行って」そのことによいてんがある、西沢はこぼれをおとしたがっているようだし、ふりむいているのだが「ほかが、スピードにのって、からまなければいけないのだが、それがない」
そう思ったのもつかのま,

サントス→鈴木
稲本→市川

と後半からかえてきた。

どうしたトルシェ?

いやサントスをかえる彼の、人種差別はわかる。

市川に期待することは右からのクロスであることは、よいとして、それに「あわせる」のはかわらず「西沢」と言う意味である。

どうしてそういう判断になるのか?
そもそもそういうことなら、西沢のゴールスコアのやりかたを試合前に「どう考えたのか?」である、これは結果論だが、「きょうのようなトルコのラインだということがわかっていれば、きょうこそ柳沢の日であった」

この意味はサッカーを知っているひとならわかることである。

ただしトルシェにそれを「見ぬけ」ということではない。

市川→西沢で「いける」と見たのか?

それとも『選手の反乱』に気が動転していて、最初からゲームを投げたのか?

解説、加藤久が(ついでにいうと、久は個人的には好きな奴だが、前半の解説でもなにか緊迫感を感じさせず、もたもたしたことを言うだけで、私は無音にした)これで前が2トップだというが、それはないだろう、前半からそもそも2トップである、ただ2トップの生かし方が前半、後半それぞれ違うのだが、わからんということだ。

トルコはほとんどオフサイドをとりにこない、だからチャンスがある「はず」
と見たが、その「はず」の攻撃をいかにつくるかそれが見られない。

おたがいに「中盤」あいてきた。時間はいつもどおり「指からこぼれていく」市川をさげて森島、相手はハサンもさげてこちらのボールのでどころ、中田、小野をマークし始める。

いくら選手を交代しても自分たちの攻撃で、相手のラインをいかに崩すかは「もともと見るべきものがなかった」わけで、結局0-1のまま終わった。

また、ここで酷なことをいうが、0-1をおいかけるのに「あれでよかったのか?」という見方はある。

大胆な言い方をすれば、ワールドカップ、このリーグの最終戦とこのトーナメント「から」0-0、0-1、1-0、要はイーブンゲームの最後の25分、死闘ではないか、死闘になるではないか、それはどちらかが額から「血が」ながれる(むやみと流血をこのむものではないが)「ことになる」し、ハーフが「たまだし」ではなく、あいてのはねかえしたボールに、身体をはりにいっては、腹に相手の足がはいる「ことになる」し、とそういうものになってしまうではないか、それが『見られたか』ということである。

だから中山をいれたのではないの?


韓国対イタリア、2-1

ダイジェストしか見られなかった、

車のラジオで聞いて、1-1になったところで、赤坂へもどった。
リトルソウルでは街頭にテレビがでてきて、韓国のひとたちがむらがって、歓声が沸いていた。

0-1になってヒデインクがどんどんバックをあげてフォワードを投入していったことを知った。なるほどね。

深い示唆にとむアイデアである。
パターンを崩すにはどうすべきか?

他にも解決策はあるだろうが、フォワードらしいということを「局面の攻撃的打開」ということだと考えると、読まれたパターンの、代わりに別なパターンでは「なく」局面のなかで相手に勝つことを計算するしかないということだろう。
リスクはむろんある、しかしそのままなら0-1で負けなら、相手を混乱させなければ勝機はない、ということであろう。

明日、明後日と休みなのがうれしいね。