2002年6月14日(金) 日本対チュニジア


日本対チュニジア、2-0
まずは勝った、ことは良かった。

昔からの、サッカーファン(サポーターなんていうのでなく)、サッカーを良く知っている人、にわかファン(小泉純一郎もそのくちか)、ただ騒ぎたいやつ、便乗マスコミ、すべての人に等しくこの日が「グレートな日」ではあるという、そういう考えをしたい自分である。

自分は、澁谷で騒いでいる、わけのわからない、若いやつらを、さげすみはしない(昔、自分も早稲田の学生のころ,新宿コマ広場前の噴水で、ばかな騒ぎをやらかしていた、あの無為な時間、今ならそうはしないだけの知恵もついたから、やらないし、おすすめもしない)。馬鹿な語り口のフジテレビの解説,長島の言う所は耳にして「いやだな」と思うが、まーワールドカップが終われば、画面からは消えていくはなと思えば腹も立たない。

ゲームの解説で「もっと選手に頭をつかえ」と説教たれてる,松木にはさすがに,松木よ「おのれをもっと知れよと毒ついたが」(選手は、おまえにだけは言われたくないだろうに)そういうことを思わないで、ただただ「みんな」が幸福になれた日であった、と、考えたい。愚者も、賢者にも、ともに祝福があった日である。

そうして今からなんとなく、どっかにのみに行きたいな,と思っている相川もその「大きな、大きな波のうねり」のなかで、本当に,赤坂通りにあるスポーツカフェの周辺からは、自分が今まで知っている経験としては、サンパウロのカフェとか、ローマのバールとか、テヘランのチャイ(お茶)をのむ場所とか、香港のキャンデーストアといったような場所から受けたのと同じ「雰囲気」がたちのぼっているのに驚いたのである。

その雰囲気とはなにか?
例えばローマの近くの街へ仕事で行くわけだが、朝土地のものが迎に来てくれる、それでバールでエスプレッソをのみましょう、という話しになるわけだが、それが慣習である。家を出て、電車にゆられて、オフイスにはいる、という日本人のパターンではないパターンで、『自分の時間から』「働く、労働するという時間への、きりかえ」があるのだという認識を,相川、アメリカの会社で働いているときも,手にできた。

サッカーに関係はないが、アメリカでも車で、オフイスにはいる、「まず上司からいわれることは、相川、カフェテリアにいって、コーヒーとってきたら」である、こういうことがうれしいというのではなく、日本経済社会では家のスペース「から」オフイススペースへ行くのに,ラッシュがあって、そのことが「いきなり心をビジネスオ
ンに」する、ひとつの道具立てになっているのではないか、それにどっぷりの、日本人、相川、ローマでもアメリカのミルウオ‐キーでも、「コーヒーはいいんだ、はやく仕事しようぜ」と思いきり日本人的なオンになって、まわりの人々にいらつくのであった。

とにかく、世界中どこの街角にいっても、またとくにビジネスタイムであるのにその街角のカフェやらスナックにうろうろしている『人たちが』『多い』のが日本以外の「世界」の特色である,当然相川の感想としては「こいつらどうやって、生きていくための金をかせいでるのか?」と言うそういう思い。

赤坂とおりで、日本対チュニジア戦が終わって10分たっていない時間だから、まだ5時前であった、そのスポーツカフェにむらがっているのは、あきらかにビジネスマンであり、そこから聞こえる喧騒の声は、若いやつの黄色い声ではなく,押さえてはあるがあきらかに、非日常のどよめきである、それを見た瞬間,聞いた瞬間、自分が思い出したのは、上に上げた世界の街角のことであった。

おいおい会社どうしたの、仕事どうなってるの。

さて、ゲーム解析だが、うれしいが、おそらくじぶんぐらいか「ゲームを冷静に解析しようとしているのは」なぜならそれをもって、トルシェの批判をするのではなく、さらにおのれの栄養にしたいとおもうのが、コーチ商売だからである。

■ トルシェのゲーム

この日のようなゲームがトルシェのゲームであった。

別な言い方をすれば、チュニジアも普通に「攻撃力」ももっている、が、いかんせん、2-0で「勝たなくてはいけない」という条件、東南アジアの多湿、高温という外環境、いわゆる(日本の)ホームの利、かつ監督が前半はカウンターをねらって、おそらく後半勝負というゲームプランでのぞみ、それはある程度成功しかかったが、トルシェの思考パターンには「リサーチの手がのびていなかった」

トルシェの思考パターンを書く、

1) ゲームがこわれないように,トップには守備を求める、だから鈴木と柳沢にこだわった、とくに前半先取点をとられたくない、だから鈴木の身体能力,守備能力に彼の評価を置いた。彼のコンセプトからすれば「得点がとれそうもない、鈴木、柳沢」という、外野の批判は黙殺である。鈴木が前半相手をおいまわし、ボールを受ける受け方にトップらしい花があまりない、どうやって得点をしたいのか、わからないいろいろな批判をもらっていたのをトルシェが「知っていたかどうかは不明だが」トルシェのゲームプランでは、「そこの先発には、西沢でもない、高原でもない」そういうことであった。

2) そしてトルシェのいう「高いところで」のプレスプラスフラットによって、とにかくゲームを前半から壊さない、これがベースである、だからこそ前半いきなり0-1に(原因はともあれ)なってしまうと、「どうするの、どうやって、0-1を挽回するの?」といういちばんトルシェが「つかれたくない」批判にさらされる。

3) またこの日のチュニジアのように、試合のどこかで、とくに身体的な意味で、相手が、「おちてきた」とトルシェが「感じると」森島(の早いステップ)とか市川のウイングスペースへの労を惜しまぬ、ランとか、サントスのドリブルプラスクロスで、相手を攻めつける(マーこれは誰でもやるが)もし(2)のように0-1になってしまうと、その0-1になってしまうということは相手が日本を圧倒している結果による場合が多いから、そこではトルシェ「固まってしまう」とよくいわれたが、まーわからないでもない。
つまり「そこの解決策」といったところで、まー「やけくそみたいなものだ」から、守備が「崩壊しつつある現実のほうが、頭を支配してしまうのだろう」それを承知で「日本流にいえば、乾坤一擲の手」などにはあまり関心がないのではないか。

トルシェのサッカーをずっと見ているものからすれば、「森島」をだしたときその意味を充分「感じる」はずであるが、チュニジアは「わけがわからなかったろう」「なんだこいつは」と思うのだが、ぺナの「なかではとにかく、はやい」(ということを1点失って、かれらは知るところとなった)万事休すである。

それにロシア戦のレポートでもいったし、マスコミにでている連中もきがついている(が、きれいごとないいかで「選手が成長した(からトルシェの考えでなくなどと)」というが、なーに選手は選手で、ここで勝たなければ、いけないわけだから、トルシェの脳内と選手の脳内が分離しただけで、ここを言いたがらない)が、フラット3なんてのは、もはやあとかたもないというところが肝心である。

さて夜、韓国がポルトガルに1-0で勝って、日本韓国が残った、ということでもあるが、これで予選段階で、フランス、アルゼンチン、ポルトガル、といったサッカー大国が消えていった、そいうものだろうともいえるし、FIFAのフレームアップという説もある。どちらでもいい、たしかに審判の判断がホームチームに甘いと言う印象否めない。しかしワールドカップでなくても、サッカーというものはそういうものである。

そこでトルコである。

まずかけねなしの強敵である。トルコという名前だけで、これで1回戦,突破だなんていう雰囲気にはなれないほどである。

パルマ、今季、セリエAおちかかっていたときに、導入したのがハカンシキュル、それまでああだこうだと苦しんでいたパルマの攻撃があっというまにあたかも「ゴール前にただボールを出すだけで」得点できるようになったのが、この190センチのトップのおかげである。

だから、宮本でハカンシキュルを「押さえにかかるのか?」という最初のテーマがでてくるはずだ。
それに、ハサンと言うハカンシキュルとはタイプのちがう(こういうところが、コーチ的にはうれしいサッカーだが)トップが、ハカンシキュルのこぼれだまに対応してくる。

実はこのシリーズで、日本そういうシミュレーションはベルギーのときだけでそのときは日本、弱かった、わけだ。
ここでは、そのシミュレーションとはいわゆる「ゴール前の混戦」を指す、その場面があまりなかったということを言いたいわけだが、というのはロシアはクロスを多用しなかった「から」だし、チュニジアは「ゴール前までなかなかこられなかった」「から」というそういう理由で、この2ゲームはなかったということをいっている。

だいたいこれはコーチとしての勉強だが、練習では「きれい」なかたちで点をとりにいくことにどうしても(サッカーは、科学でありロジックだから)傾斜するが、ワールドカップの得点シーンを見るにほとんどのゴールが「キーパーと、トップの」どちらが勝つか、といういわば中間点に,ボールが意図的であれ、偶然であれ、位置した状況でトップ側が勝ったときに生まれている。

そういうボールを「出す」
そういう場面を作り出す
そう言う場面で「決める」

こういったことが帰趨をわける。

ただそこまでというかそのいわば1発場面にくる「まで」いろいろと攻撃の策をろうする、ことは「必要なので」ドリブルだスルーパスだ、クロスだと「攻めつけて」いく必要はあるが、結局最後は、キーパーが『出られない』場面をつくられて決着がつくという、そういう感じだ。

森島の1点も、鈴木が相手の守備に「よせて」チュニジア苦し紛れに中へクリヤーしてしまった(ところに)森島「あらわれて」ずどんである。別に、攻撃のかたち、が結果でた、ということではない。

トルコもそれ以外の攻撃パターンはあるが、上述した攻撃パターンを「もつ」それゆえ、おそろしい相手といえる。

ドイツ対パラグアイ、1-0

■パラグアイの憂鬱

ってなことを考えていたら、相川うかつにもワールドカップのこと知らないので、もう15日からトーナメントが始まるのを知らなかった、で、ドイツ対マルデイ‐ニのひきいるパラグアイを見ていた。
チラベルトには、今回からい評価を出している自分である、「その横に走るステップに、なにか不安を覚える」

自分の「感触」が正しければ、「どこかで、チラベルトのちょんぼ」がでる「はず」だと思っていたら、最後にいわゆるアーリークロスがはいってきて、確かに、チラベルトでなくても「はいってしまったかもしれない」が、自分の左サイドにきたのをそのままいれられて、パラグアイのワールドカップが終わった。

グラウンドではパラグアイの選手「うまいし、戦術的にも正しい」だが、圧倒的なドイツの体格を前に、やはり、最後に「カーン(ドイツのキーパー)の前で、カーンと勝負」という場面を作りだしえなかった、そういうところがパラグアイにとって今後の憂鬱ではないのか?