2002年6月11日(火) フランス対デンマーク


ジダンが「でれば」「でれば」というのが御用達マスコミ、およびフランス人たちの「言いたいところ」であった、が、やはりそうではなかったことの証明になった、のが、この日のデンマーク戦であった。
むろん、ジダン見ていて「痛々しく」100%の体調ではない。

左足はふんばれない、わけで、「おい、ジダン、プロならここは休みだろう、選手生命が終わるかもしれないではないか?」と言いたかった。

今は休場して、このままおそらく引退の、貴の花、が膝が脱臼していてなおかつ優勝決定戦にでてきた(そうあの小泉が感動したといった)対、武蔵丸との勝負、相手の武蔵丸は「さぞや、やりにくかったろう」つまりあの優勝決定戦で、貴乃花の膝をけたぐりに、でもいけば(正当ではあるが、ほとんどの日本人の憤激を武蔵丸,末代まで)背負うことになったろう。

あれと同じで、こういう状況というのは、ほんとうにむずかしい。
ジダンのほうの「むずかしさ」ではなく相手のデンマーク選手のジダンへどう応対するのかその態度と言う意味である。

そういうこともジダンやルメールはわかって、なおでてきたのだが「それは単純な、フランスへのロイヤリテー(忠誠)の表出なのか?」

そこはいまはわからない。

杉並では、三木とか学園では、渕上の「前半のプレイのしかた、いかに」という、そういうことのサンプルをジダンから、見たいところである。

サッカーは、後半ハーフがあいてくれば(マークがゆるくなれば)ハーフが主導するゲームになるのだが、前半「マークがきつい」なかジダンはどうプレイするのか?
そういう目で見ていた、そして納得できたが、問題はルメールどうしてワントップにするか?ということである。

もし失点をおそれたというなら、結果0‐1に「なってしまった」ことをどう説明するか? 個人的には1トップを好まない、ハーフにとって、前線にターゲットが2人いることを、自分は好もしいことと思う、からである。

そしてジダンが出たが、やはりフランスはゴールをあげられず、0-2でデンマークにやぶれ予選敗退となった。

そのジダンの前半のプレイだがやはり予想できたように「さがり」もあれば「トップの追い越し」もあった。
なかったのはウイングプレイぐらいのものだ。

ジダンへのいいかたとしては「どうやってボランチをあがらせるか?」ということになり、その点もわるくはない。
やはりトレゼゲが押さえられてしまった、ということにつきるわけだ。
自分は、そこをずっと指摘してきたわけである。
かくしてフランス敗退。

しかしそのフランスサッカーは、コーチからすれば、目標にしたいという内容である、ことに変わりはない。

ルメールがゲーム後語ったこと「大会の水準に達していなかった」これがよく理解できることである。
私の不名誉はどうでもよいといったが、その真意はわからない。

またデサイだけは、スタンドのサポーターにあいさつをしていた。
3ゲームで3失点をした守備の「リーダー」である。
『彼の心理は、守備はまずますさ』攻撃はおいら関係ないやねだろうか?

もっともらしく、各選手の所属クラブの直前でのリーグ等の死闘をとらえて、かれらのハングリーさがなかった、というやつがいるが、くだらん心理分析のたぐいだろう。

例えば、ジダンとマケレレは「レアル」で欧州チャンピオン
ビエラ、アンリは「アーセナル」でプレミアのチャンピオン
トレゼゲ、テュラムは「ユベントス」でセリエでチャンピオン

「だから」もう動機をもたない、という心理「だけ」を解説するやつばかりで、それなら聞きたいが、イングランドのバックにもアーセナルのやつがいるじゃねーかと。

心はいつも大切だが、心のことを「手に取るように」『解説する』「やつはおかしいんだよね」

じゃーどうなのか?

サッカーは試合前のそれぞれの「攻撃力」の『値踏み』があって、仮にこちら(フランス)が『どう考えても,相手より上である』と、この『考え方』が自己陶酔ではないと、いうとき,相手も「むこう=フランス」がうえだから。

では『守備を固めて、カウンター』ということになり、フランスはいやもおうもなく、手数を「かけるしかなくなる」というそういうゲームである。

だからフランスの選手に「おまえら言ってみれば、相手の陣地内に、ずかずかはいっていく(ことができるし)、それをやるしか得点の方法はないが、実は、それが、地雷をふみにいく」のだというそういうスポーツである。

なんとか相手に「こちらにこさせて」相手に地雷を「踏むように」しむけたいのがコーチである。

それはどうしたら可能か?
今のところ、自分の考えでは、結局は、監督の力量だろうね、ということだ。
ルメールの言うことを、選手はきけなかったのだろう。

これを書いているときに、すでにエリクソンのイングランドが決戦へ進んだわけだが、その「対チュニジアの戦い方」はやはり見事である(つまらないが)、そういう「(守備的)な戦い方」を選手に貫徹「させられる」かどうかが、監督に「かかってくる」のは「明白」である。

どちらにせよフランスのワールドカップは終わった。

こういうときフランス人は、『即刻韓国から出国するのだろうか』ほんとうはそういうことを知りたい。


カメルーン対ドイツ、0-2

ドイツも理屈の上では、本戦にいけないケースをかかえてのゲームである、ところがゲームはもりあがらない感じでドイツのカウンターが2回成功して、終わった。

セネガル対ウルグアイ、3-3

テレビでみていたら最後フリーキックをレコバが蹴ろうとしたら、だれかが「どけ」とやった。選手も監督どうこうでなくどうしてウルグアイがこうなったかは『知っている』レコバはフランス戦で左足で無人のゴールへのシュートをはずしたやつだから。

アイルランド対サウジ、3-0

ボストンからきたアメリカ人、アイリッシュがこういっていた(自分はアメリカ国籍のアメリカ人だが、Always Irelandだ、)と訳せば、「いつもアイルランドなのだ」と、なぜかこういうコメントになみだがでる。

アイルランドに一度行ったことがあるが、アイルランド史上最悪の飢餓というものが、今も語り継がれているような,国だ、だから多くの人がアメリカに移植していった。そしてアメリカでそういうかれらがつきやすかった職業が警官というわけで、実際、自分も「おい相川,おれは、昔コップ(警官)だった」というアイリッシュに、仕え
たことがある。

サッカーに関係ないが、このアイリッシュが自分にこういったことがある「アメリカ人は、すぐに姓ではなく、名で呼んでくれという」が「自分は、その逆に、いつもミスターはつける」と,今となっては、その理由を「聞くこともできないが」国籍よりも、民族を了解したほうが、はるかに、他国の人々の行動やら心情を了解できると思うが、「ここらへんは、日本ではあまりテーマではないように見える」