2002年6月20日(木) デトマールクラマー講演

2002年6月20日、
デトマールクラマー講演@神奈川県サッカー協会技術委員会「から」

この日、東京は雨。

晴れたら練習だが、クラマーさんが、神奈川協会で講演をするというので、スケジュールは、はずしてもらってあった。

1973年の秋に、自分と、筑波大の松本先生と二人で羽田からバンコク、デリーと乗り継ぎ、イランのテヘランで,3ヶ月、FIFAのアジア・コーチングスクールで、主任コーチ、デトマールクラマーに相川、サッカーのコーチングを教わったわけである。

日本人同志の「人間関係」を円滑にするためにはどういった心の「もちかた」が必要かといったようなテーマがあるとしたら、「義理・人情」だ「先輩・後輩」「礼儀」等々いくらでもキーワードがでてくる。

では、アメリカ人の社会では、これもいろいろでてくるだろうが「Being straight(=率直であること)「 Open mind(=心を開いて)」「Being friendly(=友人のような接し方で)」といったように、他にもいくらでもあるが(これらは,日本人「から」すると)どう表現したらよいのか『他人と自分の距離』を「近くに近くに、おきなさい」といっているように聞こえるところがある。

だから「こちらのグループだけ」しか『耳に入らないと』誤解して日本人どんどん、アメリカ人との距離をつめてしまう、「ため」になったと錯覚する、ついには自分も「アメリカ人になった」ととんでもないことになる。

「心を開け」とか「遠慮せず、ずばっと物を言え」とかそういうことをとくにアメリカ人のほうから,日本人に「言ってくる」のでその逆では「ない」ことにも興味があるがそれはカット。

日本人の側の誤解がはなはだしくなると、「みんな、ともだち」ということになるが、どんな社会でも「そういうことは、ありえない」

そういう「方向」とは逆の「ひと、と、ひとの」「あいだ」に「距離」があるということを思い出させるほうの言い方では「To respect others(=他人を尊敬しろ、うやまえ)」がでてくる。

「どんなぼんくら上司でも」「まずは尊敬しろ」ということなのだ。
「そうでなければ成り立たない」「何が?」『職場とか企業とか、組織』とかで、逆に「それがどうしてもできなければ、やめます」と、あるいは「部下からリスペクトされない管理職は、上級管理職から、そういう理由で解雇される」ここはいっそ単純なところがある、がその話しにもいかない。
(いかないが、ここで選手とトルシェの関係は、どうであったのか?という興味はある)

なんでこんな話しをしだすかといえば、クラマーさん、当時27才の自分にとって、かけねなしに「尊敬」する対象であったことを言いたかった。

27才の青年がなにからなにまで「世界を了解していたわけではないだろう」「から」その尊敬の念も、疑おうと思えば,疑える、がほぼ30年前のそのときの自分の心は確かにそうであった。

ところで、今からする話しは,73年よりさらにさかのぼって高校生だったころ同窓にいたやつしかわからない、話なのだが、自分がはじめて接したドイツ人というのがいたのである。

そのドイツ人も実際の「教育者」として当時は「自分の、頭のうえの重い石」のように相川は感じていた、ここのところは相川「だめな生徒であった」

もっというと例えば相川は登校の際いつも「ぎりぎり」の時間の電車に乗るので「遅刻常習者」であった、それゆえそのドイツ人から厳しく叱責されるわけである。
なんと言われたかは忘れたが、大変こわい顔で、指をつきつけられて、「そんなことではだめだ、だめだ」といわれたのである。言われても「やはり遅刻していた」
どうして「そのドイツ人の(いまから思えばありがたい指摘、指導)が,相川の心にとどかなかったのだろうか?」

1975年かなにかに、当時自分は、読売でフランツ・ファン・バルコム、というドイツ系オランダ人の監督のもと、コーチとして働いていた。
後援会、といっても、松木の死んだ親父あたりが、選手激励ということで、新宿の中華料理屋へ集合ということであった。
集合時間、「さー6時か、7時か」いまとなってはそんなことはどうでもよいが、最初に、相川がそのレストランへつき、2番目がバルコム監督であった。

そのときは、私とバルコムはまだ一緒に働き始めたばかりであまり言葉を交わしたこともなかったのだが、バルコムが自分を見てこう言ったのである。

Coaches always on time.
『コーチはいつも、時間厳守だな』とでも訳せるか

変われば,変わるものである。
遅刻常習者の高校生がそうなったのである。

そうやって変化したのは、高校のころのドイツ人教師ではなく、別なドイツ人たる、クラマーさんに出会えた「から」なのだが、今振り返れば、ドイツ人はドイツ人であったということになる。
規律、克己、勤勉、責務、これらがいつも二人のドイツ人から説き聞かされたことであった。

今回クラマ-さんの、講演では、彼が英語でしゃべってそれを、相川が日本語で訳すということになった。

サッカーではないのだが、ついこのあいだまで、アメリカ人と日本人のあいだで、同じことを朝から、晩まで、会議室にこもって、激するアメリカ人、激する日本人のあいだにいてやっていた。

「ああここで、英語をこうやって日本語に訳すると」「アメリカ人絶対に怒りだすけど果たして、いいのかね」と日本人に「そのことを、日本語で念をおしながら」すすめ、あるいは「アメリカ人が,冷静にではあるがuncomfortableであるといえば、実はけっこうきつい不快感を表現したいのだが」それを「不快と訳すか、不愉快」と訳すか、「日本人のほうは不快ですと」聞かされても「ふーん」ってな表情無関心。
で、つまりはビジネスといえども心にとどかなければ、動かないこともあるわけだから、「しょうがない、流れからいけば、ここは、不愉快だでいくか」とかそういうことをやっていたわけである。

ただそのころは、自分は「通訳」ではなく「交渉人」と言う位置であった、で、いつも「もめる」のは「そう言ったじゃねーか」「いや、言ったことは言ったが、コミットしたわけではない」といったたぐいのやりとりが多く、自分は、アメリカ側に「立っている、わけだが」「ばかな、アメリカ人め、だから言わないこっちゃねーだろう」とも思うし、「相手側,日本人が」「今,この瞬間にアメリカの罠にはまる」わけだが、そこでポーカーフェースをしていなければならないというようなそういうことばかりであった。

だが、きょうは通訳なので、気は楽である。

講演はクラマーさんが、日本にコミットしてきた歴史を実際の西暦年をいいながら、たとえば、19XX年に「どこそこで、どこの代表チームをひきいていたとか」かならず、具体的な時間を、まず言うのである。

この話し方は、クラマーさんの特色である、が、ビジネスマンでも上のほうにいるやつはやはり同じようなしゃべりかたをする。

なぜなら他人に「なにかいうとき」その「なにか」を『時間』の経過の上に整理して置くことで、本人も「その、なにか」が焦点が結ばれた『絵』になっていくし、それを聞く側も『言葉ではなく、絵が浮かびやすい』からである。

その講演の内容は、相川自身は翻訳ばかりで、手元に記録できないので正確に文章には起こせない、しかしながら、そのほとんどはテヘランで、耳にしたことであるがゆえに、新しさはないが(サッカーは新しいものである必要はないゆえ、それでかまわない)『今』また、インパクトを自分に与えたので、ランダムに記録した。

■ コーチの仕事は「やさしい」ゲームを見て、分析し、練習にその分析をもちこんで,次の試合にのぞむのだ。このワールドカップで自分が見たゲームを(本のような、ノートを見せて)ここに「図」でそのチームの『システム』と『前半』『後半』のクラマーの分析および『総括』を記録してある、これらは、自分がコーチとして次の機会で「役だたせるためのログである」

■ 日本対トルコ、『トルシェがどうだこうだ』は知らないし興味もない、こういう言いかたはクラマ-ならずとも、本意としてはトルシェを批判している,と解釈できる。

というのは,韓国について言及したときには、韓国の勝因のひとつがヒデインク、だとはっきり名前を出している、日本の予選リーグ突破を協会、監督,コーチ、選手に「祝福」するという言い方はしたが、トルシェの名前は出さなかった。

韓国と日本の差はなんですか?という大野先生の質問に監督の差だとして、ヒデインクは選手としては有名なハーフだった(言わないが,トルシェはバックだ)だから守備も攻撃でも「できるのだ」コーチとしてもオランダのクラブをリーグでもカップでも優勝させた、オランダ代表でもコーチであった、スペインも指揮した、(4年でなく)2年しかなかった(ここまでくるとトルシェ、4年も準備してなにしてたの?という示唆である)のに国際的な経験の力で、チームをビルドした。ヒデインクは彼の3―4―3システムで「攻撃的」なサッカーを創出し、ヨーロッパのほかのコーチに大きい影響を与えた、現在ヨーロッパのベストコーチの1人だと,最高に評価している。

日本は不運でもあった(サントスのフリーキックをいっている)しかし、雨でスリッピーな、仙台のあの日のグラウンドでいかにプレイすべきかが勝敗を分けると,ボビーチャールトンとも話ししていた。トルコは強い(ということは,ドイツ対トルコ,1951年にドイツは1―2で負け、1952年イスタンブールで3―0)のゲームの経験で、前から知っている)、日本に対して、その優位にある体力をおしたててくるだろうことは予想できた、

ならば日本はどうすべきか?実際のプレイが、とくに前半、浮かせたロング「ばかりで」ゴールラインを何度もわるようなパスを見ていると失望した。ではどうすべきだったか、グラウンダ-(でさえもボールスピードが加速するわけだから)ほんとうに味方の選手の足元に、ワインをとどけるウエイターなみの、ていねいさでショートを、それからスペースに(しかしなおスペースにはいってくる味方に、タイミングをあわせて)ロングである。

対ロシア戦のとくに,後半は日本はすばらしかった、なぜその「集中」がこの日のとくに前半にでなかったのか?イングランドはすでに19世紀の半ばにプロサッカーができて150年の歴史がある、そのイングランドのサッカーのことわざに「勝っているチームをかえるな」というのがある。

なぜか「チーム(というユニットは)繊細なものだからだ、目をつぶっていても、あるいは目に見えていなくても、味方のプレイが理解できるという、そういう集合体である。そういう内容というものはサブがはいってきても狂うことがある。

サントスを「いれたなら、いれたなりの理由があるだろう」その理由というか目的とはいったい何であったのか?というのは前半でサントスを「ひっこめたというのは」「その目的がなにかはうかがいしるでしかないが、目的にそわなかった」「から」だろう。だったらその目的と、目的にそわなかった、ということを選手に「説明してやらなければ」選手は「自分がなぜかえられたか、わからずびくつくだけだ」

「なぜ2得点をいれた、かつ、過去のゲームでは後半になって活躍する稲本をひっこめたのか?」「森島をいれるのはよい、だがなぜ最後の5分なのだ?」対チュニジア戦では「前半のチュニジアを分析して、ロッカールームで、それが交代選手に、説明され、だから君をいれるのだ、どうプレイすべきか指示もされて」(のはずで)後半はじめから出てきて、あっというまにゴールゲットできたわけだろうそれが対トルコではどうなったのか?せめて30分はあたえなければなるまい。

交代は「適格な選手を適格なタイミング」でだろう。そうやって前半失望したが後半は立ち直るかと期待したもののやはりだめだった。コーチは「選手にミスをするな」ではなく「ミスはあるのだ、がミスから学ばない」ということが「いけない」と説く、どんなゲームでも勝てるわけではない。ミスがあったり、相手が強くて負けたゲームでは、選手に「そのチームをリスペクトさせるしかない」で練習で同じミスをくりかえさないようにして、またその相手に挑戦して今度は「われわれが勝つ」というわけだ。

だから準備の段階で、負けるゲームということがあるのはおりこみ済みである、しかしなにがいけないといって(対トルコ戦のように)勝てるゲームを失えば、自分も怒り狂う。 

■ グッドであるだけではだめだ、ベターにプレイできるなら、ベターなプレイをしろ

■ 戦術というのは「なにかゲームで、こうしたい」ということができない「ときの、代案策だ」

■ バイエルンでコーチしていたときには、バックは「買わない」とクラブに言った。バックはつくれる。フォワードがストッパーに、ウイングフォワードがウイングハーフに,『サッカーがやれる』やつなら,バックになれる、ゴールゲッターは天からの『贈り物』だ

■ 大和魂は戦争とは関係ない、「おのれの弱さに負けない心」「チームのために、おのれを忘れて尽くす心」「スパイクのひもをしめたら、家族のことも、なにもかも忘れて、また結果がどうだも忘れてゲームに没頭すること」それらを「大和魂」と言ったのだ。

■ フェア-プレイを選手にさせろ、子供たちは見ている

■ 韓国と日本の差、『日本人はどうだ』とは言わなかったが「韓国人はファイターだ」朝の6時に起きて、サッカーだけでなく、アーチェリーの女子選手も、筋肉のつきすぎたウエイトリフタ-でも400メーター60秒以内を10本走る。3本で走れなくなるウエイトリフタ-が倒れていれば、コーチがその尻を蹴る。そのあと6時45分から朝食である。

多分、ハード「すぎる」だろうおなじことを、ドイツではやれない、日本でもむりだろう、また韓国がそういうことをやれるのも「伝統」の力ということもあるだろう。今は若者は世界中でそうなのだが、(サッカー選手)金がむこうからやってくる、ほしいものはなんでも手に入る、問題というものがない「から」「髪をいじることぐらいしかない」ということになる。

戦前のドイツでは、食べることができないことが問題だった、戦後は広島のように、街は破壊されてまた,食べられなかった、時間をもどすことはできない「から」「今の選手、こどもたちに」昔のように「そうしなければ生きて行けなかった」ことを、要求できない。

ではどうやって強い選手をつくるか?答えはeducational procedureだろう、つまり教育過程だろう、30才でもベッケンバウアーは自伝のサイン会にきた人々にいわば無礼な署名をした、だから私は「おまえの金は、どこからくるのか?人々をオナーをもって遇せ」と「叱り飛ばした」我々コーチは「教育者」だ。選手のトレーニングだけをコーチするのではなく、選手のライフをトレーニングさせなければならない。

■ 母国ドイツはどうか?と聞かれて、「ドイツ国内は今回のチームに期待していなかった」予選段階を勝ちながら、コンデションをあげてきた、しかし守備の中心選手を負傷で母国に残しているし、中盤でクリエートする選手も残してきた、ただナンバー1のキーパーがいて、かつ得点を挙げる選手がでてきた(フローデ)から、理屈ではなく期待の感情としては勝利を望んでいる。

だがアメリカは「失うものがなにもない」「負けても、あのドイツに負けたんだからと言えるだろうし」体格もよいし守備も強い、ドイツチームといえば、対カメルーン警告を8枚プラス赤紙というのは恥だと思った。昔は実際退場をくらった25才のフルバックは、翌朝呼ばれて、『君の家族たちは好きだが(そういう社交的ないいまわしだろう)君にはもうこのチームにいる資格はない、だから荷物をまとめて切符をもらい、家族の元に帰りなさい』と代表チーム追放になった、そのあと2度と召集されることはなかった。

ドイツも、ECのルール(つまるところは政治の結果)で、外国人選手ばかりがめだつ、バイエルンミュンヘンでさえ、去年の年末のリーグのゲームでドイツ人は2人しかでていなかった、ひとりがカーンでもうひとりは代表ではない、各クラブの下部組織の若い選手はこういうことをいったいどう思うか?実際代表アンダー21やら23では多くのドイツ人がそのベースのクラブでは出場機会がないのである。

■ フランスの敗因は、1998年に勝って、2000年のヨーロッパ選手権にも勝った。このあいだのコンフェデでも勝った。ひとつあるいは同じメンバーでひっぱりすぎた。若い血の導入がなかった、このパターンはよくあることだ。

もうひとつはジダンのけがだろうそのけがも練習で起きたことだ。なぜか1週間に3ゲームもやってくるフランス、イタリア、イングランド、スペインの選手はみんなそれぞれのスケジュールを終えて、たったの2週間しか、代表チームの準備をする時間がなくてワールドカップにでてくる。
ましてやスター選手たちは小さな負傷(でさえ2-3日の休養が必要なのが人間の身体生理だろうに)そうはできずにゲームにでることを要求される、筋肉が疲弊しているのは無理がない。リーグの、構成数は、16チームがいちばんよい

■ ブラジルが良い,良いといわれても、リバウドとロナルドをイングランドは『ゲームからたたきだす』戦術にでてくるにきまっているのだで、そうなったらどうなるのか?イングランドは自陣で守っての速攻に鋭さをもつ、ドイツはイングランドの練習試合で1―0リードから同点にされ1―5でドイツのホームで負けたというより、壊滅させられたのである、オーエンもよい、いつもゴールの一点を見る視線がはやい、そしてそこ例えばサイドネットにボールを送りこむ(蹴り飛ばすというのでなく)というゴールゲッターだ。

■ 自分は今77才になった、51年間コーチをしている。基本的にはサッカーは変わらない、サッカーで成功するためには、強い心をもった選手が必要だ。韓国のユースチームをひきいてたときに、明日のゲームの前夜のMeetingで、いろいろいったあと「幸運をいのる」といって、自分の部屋にもどった、少しして、主将と副将が自分のへやにやってきた、(まだ若いのに)彼等が言った言葉は「我々は勝たなければいけないし、また明日のゲームでは勝つでしょう」というものであった。

■ 日本の子供たちの精神をどうしたら鍛えられるか?という質問には、私に向かって「それはわからない」と言った。(こういう経験は幾度かしている,率直にいえば、『外国人で、その道の専門家ならば』なにかわれわれ日本人に「答え」をくれるだろう、という日本人のある種の意識がベースにある)

クラマーさんといえども、「自分が知らないこと、研究していないこと」については語れない(というあたりまえのことなのだが)最初に日本にくる前は、父親からも,日本を学び、また(日本関係の)本もたくさん読んだ、しかし「今」は,『語るほどには』日本をわかっていないのであるからそれは「みなさん」の問題だろう、というそういう言い方になるのである。


個人的な感想:

1925年生まれだから日本流でいえば大正,昭和のさかいめの世代で,自分の母親と同じということになる。
元気でよかったね、と思った。

それと生涯一コーチという、日本的な言い方だとそうなるわけだが、生きかた(といっても何も見えないのだが)の先達がまだ努力してサッカーをコーチするのだというあたりまえのことを、言い放っているのを目にして、またおのれの「だめさかげん」を自覚した。