クリニック(#43)

2005年11月08日(火) 中3練習 1530-1700@栄光

今の高校2年あるいは今は受験勉強している、高校3年生の「現実」を見て、まずは「サッカーへの興味」を と「感じた」から、基本をすっとばして、ゲームからはいった、ただ ゲームをやらせるのではなくて、「できないのを承知」で、「戦術的な、こつ」を「ああだこうだ」と教えた。

「かってにやってしまう」「適当にやってしまう」「サッカーというスポーツのもつ、深さなどには、1,000年やっ ても到達しない、方法論なき方法そういうものを「認めれば」「練習に意味がなくなり」「指導者の言う事に従う という態度は芽生えもしない」「他の選手のパフォーマンスをプラスにもマイナスにも評価する、こともできな くなり」「組織としての統一性を欠き」等々、いくらでも、ダウンスパイラルのありようを、描けるが、そういうダウ ンスパイラル「ではいけないのだ」ということを「どうやって、選手にではなく生徒に覚醒させるか?」かつ、そ のうえで「基本的には、サッカーっておもしろいじゃないか」あるいは「練習って大事なんだね」という、感性を ひきだす、そのために「基本飛ばして」「ゲームからはいって」その気にさせたと自分では思っている。

すると同じ方法論をこの中学3年生に、ぶっかけてもそれもありうるだろう。

ただ、微妙に良い方向、アップスパイラルに、栄光が変化してきているなら、やはり王道は基本であろう。 栄光のサッカーがどういうサッカーでもかまわないのだが、私なりにそれを言えば、「きびきびした、パスサッ カーであって」それを担保するのは、あたりまえだが、独り独りの選手のボールを「とめて」ボールを「蹴る」と いうその「ふるまい」そのものが、「さすが」だね、と見られるということになる。

そういうことは「譲歩」できないことであって、部活動の思いでとか、友人との交流とかそういうことは、世代、 世代でひろがりがあって、他の代にあれやこれや、いちゃもんつけられる筋ではないのだから良いとして、 「サッカーそのものは」きびきびした、パスサッカーでしかない。

ただ「プレスとフラット」という今風の「サッカー」のなかで、きびきびプレイするのは、なかなかむずかしい、 というひとたちもいる。
正直に言えば、栄光においてでなくて、よそでも、「なんでこんなに、プレイがへたなチームなのに」「こちら が負けるの」その理由は、相手はボールとまらない、ボール蹴れないのだが、こちらの攻撃をプレスでとめ て、あるいはフラットで、オフサイドにひっかけられて、「で、こちらが負ける」という考えに、こだわりすぎた間 違いもある、蛇足だがわたしの師である、クラマーさんは、やはり、偉大であって、「サッカーの流行には無 縁に」「サッカーの本義でもある」「ボールをとめて、ボールをパスする」ただその単純だが、あたりまえのこと にだけ「こだわれ」と教えてくれたのに「凡児の類いの」相川さんは、迷路にはまりこんだということも自覚し ている。

ボールのとめかたを2分別する。
ひとつは「ひきだま」で、この方法は30年前からかわらない。しかしこのとめかたでは、攻撃はできない。い わばバック向き、守備むきである、他方は「押しだま」で、これは言い方としては「足を」ボールにぶつけて いく、だからうまくいけば、はしりながら、相手の逆に、逆に、ボールとからだが一緒に行くわけだ。この二つ を選手に意識させないと「ひきだま」つかえばよいのに「押しだま」つかってとられる、おしだまつかわないと いけないのに、ひきだまつかっつて「キープはすれども」「攻撃できない」という(今の日本代表もそうではな いか)

ひきだまはボールを地球に例えれば「赤道」に足をコンタクトさせる、そこまで自分のスキルのトリビアルなこ とに「目をむけさせたい」
押しだまは赤道に足をあてると「ボールを殺せない」だから基本的には、南半球をねらう。

どちらにしても「蹴る足」のところに、ワンタッチで「とめる」これが基本で、こういうことはいまの子供は「栄光 ではなくても」まったく知らない。
急いで言えば「押しだま」「ひきだま」どちらにも、フェイントという要素が必要である、しかしそのフェイントは 「かたち」では覚えられない。
だから「それはいずれ」である、あるいはフェイントは(とくに押しだまでは)才能依存要素で、才能のない子 供に「覚えろ、覚えろ」としても時間の無駄である、これは経験からくる認識である。

■ インサイド、同じインサイドでキック
■ インサイド、同じアウトサイドでキック
■ 6対6

ボールコントロール「だけに」選手の意識をもたせた、ひくなら徹底的にひけ、ということだし、押しだま、つ かいたければ、つかえである。
結果がでない「なら」きょうはまだ言わない、スクリーンということに、はいっていくわけだが、ひとりの選手が その体力を言わなければ、「ひきだま、プラススクリーン」でとりあえずゲームを楽しめる、しかし専門家から 言えば「あんだあいつは、相手にけつばかりむけて」という悪評かになる、しかしだからと言って、その選手 に「なんでも前向け」だとその選手はボールをとられてばかりだ。
だから、ここでコーチが介入するか?介入しないか?ということになる。つまり才能があれば、「前をむいて 失敗しろ」だ失敗から、前に行くボールのさばきを「覚えてくれるだろう」(実際はわからない)才能がなけれ ば「とられるな」=スクリーンだ、ということになる、この言葉にすれば、いかにも明快なところが実際は、「わ からない」だからあまり介入しないということも「わかるのだ」事実イタリアへ行ったとき、イタリアのコーチは フォワードにはダイレクトプレイを「させてはいけない」とまで言い切った。

フォワードの「ボールのさばき」こそ、サッカーの攻撃を担保するものであろう、ついでにいえば、わたしは 「攻撃」と「ポゼッション」をどういうようにわけるのかが「今風のサッカーだと」思っている。
ポゼッションサッカーを高校生それも3流の選手に強いると、未熟だから、キープ、キープ、キープのはずが 自分が失敗するから、自滅する。結論言えば、選抜レベル、クラブレベルでないと、このサッカーは陽の目 を見ないというわけだ。

何名か才能のある選手を認識した。



(記録:相川)