クリニック(#27)

2004年11月03日(水) 新人戦、栄光0(0-1.0-2)3湘南 @湘南

完敗ではあるのだが、負け方が、わかりやすくなってきたことは、良かったことである。
進歩だろう。
えっつ、というようなひともいるかも、
そういうものである。
負け方が、普通の、高校のようになってきた、ということを言っている。
ではこのまま「から」どうやって進歩するかといえば、
自分なら、蹴っても、「すぐかえってきてしまう」トップをやりだまにあげる。
そこを「どうするか」というような問題のたてかたを普通の高校でも、する。

栄光のラインは「相手の、縦のロング」に「逃げてはいない」競っている、ただ時々、「裏をとられてしまう」ストッパーがいるわけだ。裏を「とられて、相手の尻をおいかけるくらいなら、相手が先にボールをさわるけれど、からだはまだ、自分がゴールサイドをとっている、という選択をする、すなわち、「後で先」とる、なんてことができるようになれば、いいだけである。

「もっとヘッドの練習にはげめばいいわけだ」

ラインでなんとかはねかえして、あおきとありさわが「たちあがり」からそのこぼれを「ひろわなければならないのに、そこらへんはおそらく指示「なし???」だから、前半、「どうやって」たたかうか?混乱が続いた、
具体的には、相手が4バックなので、「あがってくるサイドバック」をどうやってマークするかということで、とくにこちらの右サイドはそれほどひどくないのだが、左サイドがどう対応するか、わからぬまま前半終りである。
あおき、とありさわが守備の意識「からはいれば」もう少しよく戦えたろう。

こたえはハーフタイムに出して、こちらのラインがはねかえす、こぼれをひろうという勝利への端緒が「でるか」と期待したが、少しはそこが整理されたものの、肝心な、ボランチの「わがままなプレイ」でほとんど「そこが、なにもおこらなかった」

だから「そこを」改善するとうことが見えたわけだ。
選手がどう思おうが、そこを「なおさないと」サッカーにならない。
これもそういうことが「わかった」のだから良いことであろう。
選手が、そこを「わからなければ、選手が度しがたい」

いろいろなことで確かに「差」があるといえばあるし、この程度の差は別にどうということもないともいえる、こちらのシナリオは、「試合」を経験させながら、つまり、サッカーを覚えながら、サッカーの質をあげていこぅということだが、「きょうは」ハーフのところで負けた。

多聞柴野先生にしても、『初めて体験していくことなのだが』練習ではチームの中心、しかし、いざ試合「やらせれば」あおきとありさわ「ふたり」が戦犯ということになる、では「どうするのか」彼らを、どう遇するのか?

チーム創造というのは、そういう問題なのである。

むろん、コーチは選手を批判する。

白線のなかで全て解決ということを、頭におきつつである。
しかし言うべきことは言わなければならない。
耳にいれなければならない。

試合でだめなことを「こう言ったら、選手がおちこむとかそういうことを心配しないで」ストレートに言わなければならない、でなければわからないのだから。

そこをはっきりとわけるわけである。

練習では失敗をほとんどなじらない、しかし試合はちがうものなのだ、という教育を「今、やりつつある」わけだそうしないといつまでたってもくやしいというきもちがでてこないだろう。

だから、後でまた言うが「先に、ボールに触っているのに」キープできないトップもそこで甘い顔はしないで「やはり」「おまえらバカトップだ」と言われるわけだ。

というのは最初の頃はトップが2コースとっていて、ラインからすればむずかしいところにいることを「誰もおかしい」と思わないというようなところが、問題なのである。

0-1にしてもフリーキックから「あおき」が裏をとられて、ということである、ひとつ(守→攻のきりかえ)がわるくてどつぼにはまると、「他のことも」うまくいかない、つまるところは、「選手としては」最低な部類ということだ、

0-2は後半ストッパーかぶって、自殺点、そこからさきは、いいが佐々木のところで少しは、こちらのサッカーができていたかなと思えるのはよかった。

あと顕著なのは、トップがプレイが遅いから、結局ハーフライン上の、トップのところで、同じく守→攻にかわらない、というところである。
それも、わかるわけで、どうしたら勝機をつかめるか少なくとも、選手が納得できるかというところにはきているということが大事なのである。

ランダムになるが例えば「さかい」が後半、すばらしいタックルを行った。ほかのことはだめなのであるが、例えば後半よいパスが「さかい」のところにきて、クロス「あげられなかった」みたいに、しかしたとえたった「ひとつでも」良いプレイがでたら、それが「成長」への第1歩だろう、そういう意味で、「のびしろ」というものは、かんたんには「わからない」コーチだからわかるそして、そうやって選手の現実を「練習」でつきつけてやって、彼らをなっとくさせるしかほかに「方法」はないだろう、。

佐々木がこのまま「あがりめ」では「きついかな」という恐れもあるが、しかし、佐々木の「はやさ」はこの試合でも「観察」できた、つまり絶対佐々木だということはないのだが、ある程度はささきはひっぱていくしかない、と言うように考えるのが高校サッカーの日常である。

それにしても、佐々木が前に出すパスに2トップはまったく、感応しないということもまた「観察」できるわけだ。こういうところがあたまがいたいわけである。

そこで、誰が一軍かということを言えば、結局は「のびしろ」がコーチの頭の中で考えて行くのではなく、現に、見えている選手がひとりでに残って行く、とうことだろう。例えば、さきほどは、あおきやありさわをどう遇するか?ということが問題だといった。

むろん「叱責」をして「かれらの奮起を期する」というだけである、他に方法はない。で、仮に、次ぎの試合で同じメンバーで出して、叱責された部分にとりくんでないとしたら、そこで「ほす」ことになる。


(記録:相川)