クリニック(#40)


2005年8月29日(月)練習0900-1100@栄光

1) ストレッチ:知識として「「自分の身体のていれ」を行う、という基本則、当然知らない、と理解している(しかし、栄光生が本当のサッカーに関心をしめすまでは、アップとかアップ以前の、問題とかあえてとりあげなかった、きょうだって、観察していればわかるとおり、自分の筋肉とか関節とかいうことに、英語で言えばsensitiveなやつは、まずはいない。またここがむずかしいのだが、なかたあたりは、股関節軟らかそうである)(だからその身体性はサッカーをやるのにむいているわけだ、他方、案の定、関節固いねと見える奴がけっこういる、そういうやつで、足が速い、という奴は「いない」)しかしだからといって、ただでさえすくない練習時間をストレッチにさいてみたところで、「サッカーの実は」あがらない、他の選手を「なかた」のように股関節柔らかいように時間をつかってみたところで、「なかたのように」サッカーができるようになるわけではない。

2) 栄光でサッカーをやっていくうえで、他校にくらべたらマイナスだマイナスだというようなことをいくら、ならべたてても、誰も前向きにならない。他方選手に指摘したように、実は、豊かなアセット(財産)もあるのだ、それを十全に使いこなしているわけではない。芝生グラウンドで、ストレッチをやれる環境など、そうそうはない。

ゲーム:
ごろロングと2対1:選手の意識は鋭く、低い弾道のボールを蹴るというところに、行きつつはある、それはみていればわかる。他方原因としては、スタミナがないから、こう言った校内ゲームでとくに、ハーフの守備は、おろそかである、だからラインが蹴ってもよいし、ハーフにつないでもよい、というどちらでもよさそうな場面がでてくる。

ハーフにつながれたときに、むろんその次ぎ、そのハーフがなにをするか?語りきれるものではないのだが、昨日の観察では、そこでロング「だけ」と誤解していそうであったので、マークの甘さを利して、エリアでいえば、2と3のさかいめあたりから、3にかけて、つなぎでどうチャンスを「造れるの」というほうに、誘導していくと、結論からいえば、とたんに、「スピードあげられなくなる」わけだ(つながるけれど)つまり別な言いかたしたら、ごろロングをだしていたほうが、「スピードあげ」が、わかりやすい、ということになる。

ここらへんは、当然現象として表れるわけである。
全日本でさえ、つなぎだすと、「とられない」がスピードなかなか「あがらない」のだから。
才能ない、栄光生ではとてもではないが、たとえば、さいとう、いっしょうけんめい「見て、見て」さげてしまう、というナンセンスさがでる、ということになる。

ではつながせなければ、というような発想になるが、そこにたいする、コーチの考えは(選手にはまだ言わないのだが)「つなぎ」が「はやく攻撃する(ロング主体で)」ことの陽動になるというものである。
どちらにせよ、ボールは常に「ていねいに、あつかわれなければならぬ」ことになるので、最後は、同じになるのだが、とりわけ、ハーフがあいてに「かかっていけるか」ということが、両方のモードでも、必須なことになるのは当然である、つまり別な言い方をしたら、さいとう(うまくはなったが)ボールをどうつないだら、こちらが、攻撃的になるかということであっというまに「かべにつきあたった」ということだとも表現できるわけだ。

ただつなぐというだけのサッカーをサッカーだと思いこんでいる指導者がたくさんいるので、そうではなくて、どうしたら相手のハーフの裏をつけるか、が、本当のつなぎのサッカーの本質になる、そして、ライン→ハーフでつないでみたところで、「スピードの天賦にめぐまれたハーフでなければ」スピードあげは「できない」というところが、悲しい事実だということである。

その他いろいろなことが目についたが選手に言っているように、「練習はあくまで練習」サッカーのやりかたを、コーチが教えて、課題に挑戦してくれればよい。他人の目をきにするやつは、スポーツ無理だ。

言葉はわかっても、「自分のこといわれているのではない」と思いこんでしまう、やつがまだいくらでもいる「から」いろいろな場面で「挑戦」のほうにかれらの、意識を鼻むけさせる作業が続く。きょうの例でいえば、スロウインのときに挑戦にいかない「さわだ」のようにである。
表現として適切かどうか、わからないが「要は、ちんまり」したプレイで、部活やっている、やつということである。
いくらでもくりかえし、くりかえし「選手の」なかでちじこまろうとする自我を「そうではない、そうではない」と叱咤する必要がある、ということであろう。

(記録:相川)