クリニック(#36)

2005年8月08日(月) 夏のフェスティバル

8月06、07日、散発的に試合を見た。
個々の試合解析はしない。
勝ったり、負けたりである。しかしどの試合も、サッカーらしくはなっている。

というのは、選手権予選で、氷取沢に負けたが、底上げは、果たせているということを「前提」にしているから、部活動的にも、チーム造り的にも、強化的にも、「では、これからどうしましょうか?」という大きなテーマを選手に提示、わからせて、また練習にとりくむ、そういう時期だということこれがまず大事なことだと思うからである。

柴野先生からは、氷取沢以降、どう言う練習をしているかのレポートいただいているが、それらのレポートに、なにも、返答を書いていないのも、「同じ理由による」
むろん、氷取沢以前に、主たる、テーマにしてあった、サッカーの内容を、選手が十全に、すでに、身につけたとは「言いがたい」わけだから、柴野先生が「氷取沢以降のテーマ」ということに意を、もたずとも、「何かを、テーマに」練習をされていることは、良いことである。

07日に、選手にグラウンドで、その「これからの主テーマ」というものを、説明した。

栄光は練習頻度が少ないわけだから、この日のような、主テーマのケースでなくても、いきなり、練習ぬきで「これやって」ということが多い。

現に、06日には大庭のグラウンドで、スロウイングの戦術的なやりかたについていきなり、説明、実行(できなくてもいいのだが)もとめた。

また同じく、06日には、ロングが蹴られたとき(相手でも、こちらからでも)ファーストをどうやって、チームが手当てするかは、ひたすら「ジャンプヘッド」の練習にあるわけで、ここが長足の進歩をとげたから、試合がらしくなってきたのだが、ファーストがどこにこぼれても、セカンドをとる、セカンドをとれなければ、サードをとるという、その「とりかた」を「感じれば、マーク相手をはずしても」「ボールに行け」その根拠は「勘でしかない」とした。

まだ強調していないのは、この脈絡のテーマで言えば、セカンド、サードで、瞬時、「フリーならば」「ボールをとめる」というものがある。
栄光はまだここは、へたである。
むろん具体的な、個人の名前が、ここにでてこなければならない。
例えば、「やえがし」はけっして悪い守備者ではない、不器用だが、サッカーという広いスポーツのなかで、そのなんでもかんでも「こなせる」というのではないものの、はげしい「より」とか「相手に挑戦するとかいう」そういうせまい部分では、勇敢なやつというわけだ。

だが、「試合のなかで」「やえがし、フリーじゃないか」と思えるときにも、猪が乗り移った雰囲気で「やってしまう」わけだがそこで「八重樫、フリー」という声がかかったときに、「すとんと、ボールをとめられれば」本人もよりサッカーが楽しくなるだろうし、チームにとってもロング→こぼれだまひろい→つなぎ、というサッカーになっていくわけだから。
これも今後のテーマの1つである。

それで、07日に選手に説明した主テーマは、言葉で言えば、「いつロングを使うか?ロングを使うなら、ハーフはトップに、よったほうが良いわけだ。こちらのラインがショートでつないでいくのなら、ハーフはこちらのラインによったほうが良いわけでもある」その「使い分けを、どうやって、選手が覚えていくのか」ということになる。

攻撃と言うのは、常に、2対1をつくってしまうということにあるということも言った。
上に言った、ロングを使うということは、ただ、苦しいからロングを使うということではなくて、こちらの前線に「2対1」を造る、という意味になる。

それならいつでもロングだというのが昔のサッカーであって、今は、ロングを「ねらいすまして」低くて、正確なボールを味方のトップが「コントロールできる、タイミングで」蹴るということが鍵になるから、そうでなければ、つなぐ、ということが必要で、「つなぐ」ためには、自陣に数が必要である、つまり、極端に言えば、ハーフはこちらのラインによってくるふるまいになるが、ロングを有効にするためには、ハーフは逆に、こちらのトップによっていかなければならない、だから「いつ、ロングを出すか」というそういういわば、共通理解が、サッカーの攻撃ではどうしても、とりくまなければならぬ、テーマになるということになる。

選手は、栄光でなくても「わかりました、わかりました」といってグラウンドに出て行くのだが、さーロングというところで「ふわーと浮きだまを蹴ってしまったりする」実地においては、まずラインやハーフが地を這うような、ロングを蹴れるという練習をしなければならないということになる、でまだ練習をしていない(事実を言えば、去年の夏にまず最初に、とりくんでくれと選手に言ったのは、ロングキックであった)(ただしそのときのロングはただ飛べばよい、つまり浮いてもよいからというロングであった)こういうように、ひとつの理想を求めるのだって、相手が高校生ならば、まったく基本的なところから着手していって、悪戦苦闘して「ここまで」くるわけである。

それでいて、練習のほとんどは、「つないでいかに」攻撃するかばかりやってきて、その前提としては、「ここにくるはずだ」ということが、あったからである。
ここというのは、だから「つなぎ」だけでサッカーをまかなえない、かならず、ロング攻撃をしかけられるか、こちらが、ロングをしかけるしかない、そこで起きてしまう、「つなぎ」とは違う、モードで「も」勝たなければならない、そしてそのモードを出きれば「つなぎ」というモードに転化していくしかない、それが、わたしのサッカー理解なので、だから、ロングを蹴れるように白、ヘッドができるようにしろ、でも、練習では、パスにかかわることばかりやってきたということになる。

つまり、二つの系を追求してきて、少しは、試合という現場で二つのモードがころころかわっていくのが(高校)サッカー」だから、その二つのモードに「栄光」なれてきたということがいえる。
そして、つなぎのモード下では、わたしの目からしたら、栄光生少なくとも、そのアイデアは、わかって相手のゴールに迫っていくというそういう「かかりかた」そのものは、アイデアとしては、桐蔭だろうが桐光だろうが、負けない(個人的には、わたしは、その両チームの攻撃のしかたをそらんじている)これだけ優秀な選手を集めていて「この程度の攻撃のしかたかい」っていつもよそのチームのことながら、腹のそこで、笑っていたりしている(むろんここに、コーチの唯我独尊があるのだが)で、栄光、結果ともかく、「さすが栄光(神奈川の高校サッカーをリードしてきたのだから)ではないか」と、思われたいわけである、つまりは内容である。

例えば浦和市立と練習試合に出かけに行く、あの浦和市立だが、今は凋落している、だからどんなチーム連れて言っても、まずは結果負けないし、内容負けない、しかしだ、市立のサッカーはやはりしてくるのである、その些細なことに、わたしは、何かを感じるものである。だって「放置しておいて、市立のサッカーは自然発生はしないのだから」」放置していない、ということは、そこに「人の手が、かかっている」ということでしょう。それが誰だか、むろん市立の周辺のひとたちとつきあっているわけではない、しかし見る人が見れば、そこに「ひとが、いるということだけは、わかる」そういうものである。そういうものでなければならない。


(記録:相川)