クリニック(#35)

2005年7月26日 選手権予選3 回戦、対氷取沢0-1@光陵

台風の雨、泥田のグラウンドで、平素のゲームをやれなかったのだが、やれなかったから「負けたのか」相手も平素のサッカー(どうやらつなぐサッカーらしい、体力的にも、優れているかのような感じ)をやれなかったから、最少失点で「すんだのか」というところがある。

栄光の守備は、相手の二つの攻撃モードを「うっすら」とは感じていたのだろうが、それを「声で」味方に伝達するほどには、自信をもっていなかった(と思える)むろんだれがいけないかといえば、「それはいちむらになるわけである」どうしておれが、というであろう、むろん期待している「からである」守備の中心に「なる男なのだが」「気が小さくて、リーダーシップをとるということにならない」「そういうように、なるということが」サッカー選手に」なってくという、いちばんおもしろいところを、むろん過去の栄光の部活では、「思いつきもしない」要素で、練習というより、チーム造りの過程に「とりこんでこなかった」ということがいえる。

柴野先生から短い試合解析がとどいて、それが内容がないのはよいが、要は指導サイドがひとつひとつの試合の解析だけでなく、半年とか3ヶ月のスパンのなかで「なにが、チームに起きて行くのか、そこに鈍感だという、一面を見落としているのではないかという思いがある」

まず前提に、相川が要求している「練習でのレベル」むろん「こう言う試合に間に合う」はずのものという前提がある。楽しい、楽しいがいリ口で、あって、いまだに練習は楽しいものでなければならない、と真顔で思っている、「しかし」もない、ただ、少しずつ少しずつ、選手に、率直に言えば、柴野先生と選手ともども間違ってサッカーを覚えこんでいたものを打ち消して、いったという、そういうことはある(とことん打ち消せたかは不明だが)それは間違い「だから」それを「やるな」という表現もあれば、「それを間違い」とは言わないで「ただ」「だめ」だしということもあるがまだまだ、浸透しきってはいない。それはしかたのないことだ。

柴野先生が何気なく以下に、切りはった文章を言っている

→2戦目にケガ明けで出場させた出口は新たに指と足首を痛め、佐藤祐ももう一度右腿付け根を痛めて、本日は交代選手が八重樫、平、吉田、井上、澤田、鈴木(GK
)の6名だったので、高井のところを補強する以外は何も試すことができませんでした。←

普通の人間なら、これだけの柴野先生のコメント読み過ごすだけでしょう、
わたしは、実は、こういうことが「起きるだろう」と当然、前から思っているわけである。
いきなり選手を集めて勇ましくも、教条的に「サッカー選手なら、こうだ」「チームというのはこういうものだ」とは言わない、なぜなら、それらは、経験していない、せんしゅにしてみたら、「ふーん」っていうだけのことだから、こちらの要求をいわば「あげて」妙に選手に妥協しなければ、だれが「こわれるか」までは予測できないが、かならず、ぼろぼろと選手が、戦地「から」脱落していくのである。
だから下の先発が妥当かどうかは、どうでもよいが、上の先生のコメントでは、この11に6名のサブで「この3回戦」にのぞむしかなかった(と、泣いているわけだ)
だから、だれの責任か?という視線ではなくて、こう言う事態になってしまう「ということを自覚していましたか?ということをといたいわけだ。

わたしの見るところ上のサブでつかえそうなのは井上、澤田ぐらいである、つまり13名しか「いない」ということだ。一学期のはじめなど、30名以上の選手がいたはずである(高校3年をのぞいて)
別に「しごいた覚えもない」「叱り飛ばして、もいない」「いじめたわけでもない」ただ明確に「どういうプレイをしてくれ」ということを指導陣がもっていれば、そしてそれを選手に、言えば、そして大切なことだが、きつい試合をやれば、「何名かの選手は」「ついてこられないのである」

さらに下の先発のなかでも例えば「くずはら」はこの試合の戦犯のひとりである、しかしほかにいないから「先発」ででている、さーほんとうのことを言えば「くずはら」など「温かい目で見られること最初から、不可の選手だったのだ」くずはらに投資(自分はしたつもりはないが)ひょっとして、失った選手がいるのかもしれない、そこを言っているわけである。
「えんどう」もそうである。「たかい」もそうである。
負けいぬ意識を持っているやつはむずかしいというだけである。
こいつならといういわば隠した、先発候補を「てにもちながら」実はポジション争いをさせていく、ということである.競争させて、チームが形成されるわけではないのだ。

だがチーム力があがって言っていることは確かである、それは2回勝ったからそうだと言っているのではなくて、「よそでも」かならず起きるこの不思議な現象が栄光でも、起きているから、それはそれで、ここは通過せざるをえないのだ。

ということは、強いチームでは、選手はまず、20番以内に「はいる」ということが、あたりまえであって、11のポジションのどこかに「はいる」ということが、目的ではない、というそのことを先生も、選手も、はらのそこから、了解しなければならないということになる。

すると、練習試合のやりかたも、この原理が正しければ、この原理に従えということになる、正直に言えば1からせいぜい、7か8ぐらいまでしか、自分には、おもいつかない
だったら逆に、9番目と13番目をともに、試合に出す(むろんトップの試合という意味)そうやって「自分が」なんとか18番目いないにいるのだという自覚をもたえなければならかった、ということである。
そうではなくて、11人で、トップの試合をまかなって、あと練習にきた残りは、こだまだ、たかはしだといっしょに、「わけわからん」Bの試合に出したから、それでよいではないかとはいえない、ということだ。

          ●たかもり
● たかい     ●いちむら ●えんどう●くずはら    ●なかた
          ●さいとう   ●なりい
            ●いけだ
         ●いまご  ●みうら   

それで、氷取沢もとくに前半は氷取沢のバックは重馬場用の「サッカーをして」ダイレクトで栄光の裏に蹴ってくる、しかしあいてのトップやら攻撃ハーフは「バカまるだし」で足元にボールをいれてくる、これが前半0-0であった試合のその原因である、栄光のバックは当然あいての二つの攻撃モードを整然としない感覚で守っている、その証拠がいちむら、の位置のとりかたである、相手がいわばパスモードなら、「自分の前の全ての選手にプレスを強要して」「自分が、とれるボールをいわば待つ」ということは、ラインに自分もくっつくところがある、しかし相手が裏なら、ラインにくっついていると、いわゆる「浅い」位置になりがちだ、だから、それを「結局つかいわけなければならない」(できないのだが)

ところが後半、たった1度だけ、氷取沢がドリブルで攻めて、それを、とめることができず、0-1にされた。その前兆あったかどうか?思えば、別になかったが「ただ、たかいの、みょうな、ゲームにはいっていない、そぶりは前半から、見て取れた。」

それともうひとつの間違いは、いけだのサッカー音痴ぶりで後半は2トップに専門用語でいえば、いっしょにくっつけとして相手はラインを栄光にあわせて、小さくして、サイドにスペースがあいたが、そこに「誰が蹴るのか?」いけだだけではないが、いけだがその機能をはたせず、3トップがスプリットせずに前線にいた、という奇妙な現象が起きていた、多分「いけだ」がとんちんかんであったからだろう。

このグラウンド状態で、コーチが予期せぬ現象が「たかい」と「いけだ」に起きたわけだしかし、ゲームそのものは「たかい」が阿呆だ、いけだがぼけだ、ということもあろうが、いちむら、と、くずはらに、よるものだと思える。かれらを罰するという意味ではなくて「育ってもらわねば」困る、ということである。


(記録:相川)