クリニック(#34)

2005年7月18日(月) 0930ー1130 栄光対霧が丘2-3@栄光


        ●やえがし  ●いちむら   ●くずはら

●たかい      ●さいとう   ●なりい     ●なかた

               ●いけだ
          ●いまご      ●みうら


前半、2―0とリードしたが、2-1、後半0-2で計2-3。
ただし、みっともない、体力ないから、あれよあれよではいってしまった、という場面がなく、それぞれに理由がある、という「ふつうさ」がでてきた。

おおざっぱにいえば、どうやって失点をふせぐか?選手は頭ではわかってきだした。どうしてそういうことがいえるかといえば、気力充実していれば、指示どおり、とくに相手キーパーからはじまる、ロングへのファースト、セカンド、サードへの、それぞれの守り方「できている」と見られるからである。しかし、「どうしてそうなるのか?」推定では、「意識が漫然となってしまう」ではそれはどうして?というさらなる質問があるが、今は、そこでとどまって、とにかく、漫然となってしまう、ときがある、具体的には、セカンドにその場面にいる選手が「どういうふるまい」をすべきか、その点が漫然となる。

あるいはまた漫然となって決然ということがない」、という選手がいる、という言い方も言える、たかい、であり、なかだも、そうだし、いけだもそうである。
決然とはしているが、相手と接触して、こちらがあおられて、ボールが思うところにいかないというのが、「なりい」であったりする。
そうではなく、かつをいれられないと、ファーストに挑戦できない「昔型の栄光」選手というのがくずはら、であったりするわけだ。

蹴りあい、をどうしたら、ボールダウンさせるか、そこらへんがテーマで、後半ダウンする判断があったのはよいし、いくばくか(せいぜい2本、3本)ある意味で、どうでもよいエリアでつなげるのだが、そうなると、ハーフの「縦に出す」能力の欠如「トップの受ける」能力の欠如、足元だけではなくて、スペースに行かねばならない、のに、行けない、というようなことが、現にあって、そこがまだまだできないわけである。しかし自陣で不用意に「つないだり」「バックパスしたりして」の自滅はなかった。
となると、どうして失点するか?
つきつめれば、「いちむら」のぼけかげんが原因である。

かんたんにいえば、ラインのだれかが「いつも大声」だせる、というそういう必要条件を「みたしていない」(ということは前からわかっていた)間違って声だしはしていたが「おぬき」あたりは、無根拠に声を出せるということはあった、「いちむら」はどういうメンタルかわからないが、「とにかく、声をだし」自分が「守備の中心」という意味は、ほとんどの、ボールは「自分が、来りて、そして相手をこわしまくる」という雰囲気が「ない」わけである、それで2失点くらった。

いくらベンチから修正しても、「反抗しているのか?」「わからないのか?」わからないが、多分、自信を喪失しているのだろう、柴野先生にしてもそれはよいレッスンになったはずである。
つまり選手にいうことを聞かせる、というのは、そこでこそ言い方はともあれ「いちむら、なにやっているんだ」として、結果ではなく、こちらのいうとおり「やる」というように、なっていなければ「結局」ベンチが「なんだい」ということである。
だから今となって、初めて、去年の瀬谷戦で、相川があたまにきた意味がわかるであろう、先生もベンチの選手も「ただ自分が興奮してさけぶだけである」「さけぶとおり、選手はしたがっていない」だからベンチ「黙れ」としたわけだ。

そのうえで、では、今はこういうことがわかったわけだ。言って見ればこちらの指示の声に「したがうかどうか」だけである、しかし現実は、いちむらは「したがっていない」」さーどうするか?どういう練習をやるかと言う事も大事だが、団体スポーツでは、結局、選手が、ベンチの「いうとおり」にやるというそこが基本である。そしてあえていえば、いちむらのように一見「いうことをきかない選手」をいかにコントロールするかが大事で、だれとはいわない、が「さいとう」であれ「よしだ」であれ「くずはら」であれ「言う事ならすぐききそう」な選手は実は、あつかいやすい「からといって」戦力としては、ものたりない場合が多い。だからそんな選手に「いくらあだこうだといっても」グラウンドは教室ではないから、うまくいかないわけだ。

例えば、「いまご」もやっと、少しは言う事をきくようになった。「さとう」も少しは、耳がひらいてきた。かれらは「選手」としては「俺がただしい」というエゴが強い選手である、最初の頃は、聞いているふりしているだけで、グラウンドに出たら「すきにやっていただけである」そこを、ひとつひとつ、つぶしてきて「いちむら」がこの日は「残っている」という状況になっているというわけだ。
参考までに言えば「たいら」みたいな選手が「まったく可能性がない」というのはこういった視点からもあきらかであろう。

人間としてはとうぜん多少のエゴはあるのだが、サッカーグラウンドでは、エゴを発揮できるよりも、みんなから「なんだあいつはとうとまれている場面が多い」だから本人も「ちんまり、ちんまり」やろうという心理下にいるかのようだ、それでは、伸びないのは自明だ。
そう言う点からいったら「いけだ」あたりは前半はエゴがでて、良いほうにプレイがまわっていった。後半はどうであろうか?なにもないのである、こういうところがわからない」後半も、いけだができていれば「当分」いけだがポジションとっていただろう。ここは要観察である。

もはや過去のことだが「あおき」と「ありさわ」のふたりを見比べた際、むろんふたりとも「足りなかった」ものがあるのだが、試合で、「どちらが、良いものをだしていたかといえば」「ありさわ」であったのも結局はメンタルなところの差異に起因したと思える、ただし、では早い段階であおきにその点を批判して、くりかえしくりかえし、攻撃したとしても性格である、家庭環境である、そういう意味でとことん「修正できたということはないだろう」ただし「だから、なにもやらない=いちむらにてをつけない」となれば、これはもはや、サッカーを媒介とした、教育とはいいえないわけだ。

いずれにせよ、たとえば「さいとう」がいたり「やえがし」がいるから、ゲームがこわれるというようにはならなくなって、底はあがってきたのだろう。というのは、このゲームの先発も理由があって、どうしてこいつがでていないのだ?というようなことはないのだが、Bチームにも「可能性」がある選手はけっこういるという状態だからである。ただしいけだが後半動き止まってしまった「ところで」だれでもよいが、交代ということでもよかったろう。
それで勝てたか?とかいうことではなくて、今のところはひとりでも多くの選手が「その気になってくれなければ困る」からである。


(記録:相川)