クリニック(#33)

2005年7月10日(日) 練習試合 栄光対県立菅 @川崎、菅、0-3


メンバー:
           ●さとう(しろうと)
      ●やえがし→よしだ ●でぐち   ●いちむら
●        ●さとう  ●なりい       ●くずはら
             ●いのうえ
        ●いまご      ●みうら

まず、キーパー素人の「問題」から話しを始める。
たかもりが負傷が癒えないのは知っている。
キーパーコーチ高橋の「立場」というか活動の限界は「相川」のそれと、同じであるから「高橋」が「この本日の試合の素人キーパーを出す」という状況承知していたか?知っていたか?そこらへんは、相川わからない、たぶん、柴野先生軽く考えているのではないだそうか?

まず、もし当日あるいは前日、要するに試合キャンセルできない、時点で、キーパー不在ということであったのか?それとも数日前から、キーパー不在ということがおわかりであったのか?そこらへんから考えなければならない。
なぜなら、もし数日前から、キーパーいない、ということを承知されていたのならば、処方は「試合キャンセル」が常道だということである。

なぜなら、ハーフタイムで「どうして、コーチがこれは素人キーパーだから0-1の失点はしかたがない」というようなみっともないことを言わなければならないのか?ほんとうはいいたくないことでしょう、とくに「アップスパイラルに」もっていかなければならないときに。いわばわざわざダウンスパイラルに蹴りこんでしまうようなものである。

試合というものは、なんでもかんでもうまくいくなんては思ってなくても、その日の「でき」のなかで、なんとかその試合を「生きた練習にしたい」「から」「やっているので」キーパー素人なんて余計なことに選手が「いいわけ」を思いついたらいけないわけだ。そのうえで「きょうのだれそれ」の「ここがよくない」「あそこをこうしなさい」とするのがゲームなのに、とてもではないが、素人キーパーではそういう段取りにならない「だから、試合は」「しないのである」

次ぎに、サブキーパーが、突如、試合に無断でこなかった、だからやらざるを得ないというのだとしたら、それはそれで、「ではそういう選手をどうするのか?」ということを、柴野先生決断しないといけないでしょう。というのは、この日、負傷者もふくめて、川崎にやってきたのは、正確ではないが、20数名、相川の理解している限りでは、練習では3チームすなわち、30名ぐらいになったときもあった、だから10数名が「幽霊」部員ということがそろそろ「決まってきたかな」という感じをもつわけである。

これを読む諸氏は「こだま」という選手のことを知らないだろうが、簡単に言えば「運動神経ゼロの子である」サッカーどころかスポーツをやるわけにはいかない、運動能力どころか、人間として生きていけるのか、というほどの存在である。しかし栄光のサッカー部ではかれを部活動から、追放したりはしない、ということになっている。

こだまは練習に参加して、やすまない。
まったく進歩も当然ない。
やることも全部とんちんかんであるしかし、そう言う選手「をも」栄光は見捨てない、しかし「練習にこない、試合にこない、あるいはドタキャンで、チームに迷惑かけるような選手」には、はなもひっかけないというのは栄光のポリシーではなくて、相川の今までの経験側である。

で、柴野先生は、この点どうしますか?と、問いたいわけだ。

試合そのものの解析にもどる。
試合の先発は柴野先生が決めるということになっている。
「今の時期」いろいろとポジションにつき「試行錯誤を行う」と言う事にもなっている。
試行錯誤の中味に、チェックがはいるかといえば、それもない。
試行錯誤の意味合いがわかれば、いいのではないかと相川は思う。
ただ、試行錯誤の幅広さとでもいうべきものがあって、そこを、監督として、どうやって勉強するのかということ
が柴野先生が、会得すべきことであろう。

そこで、この日の先発あるいは交代を考えると、
1) くずはら、をウイングハーフに使った、しかし、くずはらは見るも憐れなほどに、「旧栄光的に」「走れない」ということを、露呈した、さーそれを見たとき、どうすべきであったか?他の選手も、走れない、と言えば走れない、しかしほかの選手の場合は、あと10分で足が止まったとか、3失点めのときのさいとうのように、守備をしにいったが、無邪気においていかれた、とかいうように、「よそのチームでもいわば見られるものである」しかし「くずはら」の走れなさ、というのは、まるで「こだま」のそれである「闘う姿勢」を疑う、だから自分なら「出すのは」よいが(だってわからないから)しかしあれを見たら「すぐ」「代えてしまう」これはいわば懲罰である、そうでもしないといつまでたっても、「くずはら」が「その気にならない」のではないか?

2) やえがしをだした、やえがしはただでさえキーパー素人「だから」ファウルをしてはいけない、のに、やたら手を出すファウルをする、意地汚いというより「経験がない」わけだ、しかしその点をのぞけば、けっして「悪い選択」ではない、なぜなら「相手がいやがっていた」だからここで、ベンチは悩むわけだ「このやえがしを育てるのか?」というように、本当は、ヤすんでいるやつらのなかに、「やえがし」より才能があるやつが「いるのだ」しかし先述したように、柴野先生、あおういうやつら、相川もうあいてにしませんよ、かわりに「こだま」とか「やえがし」を育てるという、真昼の夢魔みたいなサッカー部になるのだが、しかし、断固として、そうするというなら、「やえがし」を育てなければならない、その相川の思いは「試合を眺めながらの洞察」である、では「なぜやえがし」をひっこめて、よしだをいれたのか?ということがポイントになる。そうでしょう。事実はよしだいれてゲームこわれてしまった。

3) いのうえを、あがりめでためした、ということは、かまわない。しかし普通は、前半あがりめらしい働きができないという観察はある意味予想してじゃー「後半どうかな」とがまんをする、しかし後半も進んでいって「いのうえ」「あがりめのしごと」できない、できないと、攻撃はなにも「起きない」そのままでいいですかということで、柴野先生に声かけたわけだが、いささか遅い。

4) 結論からいえば「なりい」のボランチに疑問がでて(0-2)のところは、なりいの守備の不具合がでたと見ていたが、柴野先生が考えを柔軟にしたほうがよいといえそうだ、というのは「あがりめ」が「いない」「から」いのうえを試す、まーわかるが、しかし事実は、守備ハーフもいないのである。

下のほうからつみあげてくる、
これはサッカーでいえば、ラインを底固いものにしたうえで、前を「妥協しながら」きめていくというやりかたもあろうだろう。つまり「いちむら」は誰が見ても、ラインであろう、だからいちむらをどこかの試合で、ライン以外のどこかで使うとしたら、それは例えばいちむらの「パスのへぼぐあい」をかれに認識させるために、守備ハーフにしてみたり、というそういう使い方もありよ、ということだ、

つまり「選手のポジション適性」を見たいから「ではなくて」「選手に自分の弱点を認識させるための」「ポジション変更」もあるということだ。しかしそういう贅沢なことを今の栄光「やれるか」という議論はある。思うに、ラインを固いものにしたいがために、多分、でぐち、いちむらは、今の所「不動」という感じに、先生の頭のなかではなっているのではあろう、それはよくわかる、しかし「いちむら」ではなくて「でぐち」を見たら、この選手の適性は決まっていない、というように、わたしは思うので、どうせ「0-3」で負けるなら「でぐち」が守備ハーフ、さとうがまんなか、なりいをあがりめ、というような試行錯誤もあるのである。

ではラインをどうするか?どうしたって、もろいということを戦前ベンチもわかって、しかし、そのことを選手に告げれば良い、なぜって、1)にでぐちがあるいはいちむらがけがしたら「どうすすの?」と選手に告げれば良いし、「だから物語としては、この日は例えばよしだをあまりに使って見る」その意味は、でぐち「は」「こえないだろう」しかしよしだの、あまりは「あるのかもしれない」とよしだに告げることになる「よしだ」がぼくはどうして、マン・マーキング役が「できないのですか?」ときいてきたら、「それがわかるのがこの日の試合だろ」といえるわけだ、だってあのスピードでは、むろんスペースマークもできないのだが、マンマークはなおさらできない、「マンマークなら」「まだやえがしの」のほうが「ベターだ」とみるわけだ。

ウイングハーフに「アップ、ダウン」の声だせと1年前から言っているのだが、出せない、そいうやつを追放だ
ろう、出せない「から」劣弱栄光生なのだが、単純な考え方こそがサッカーの基本であって、それら単純な
いわば定理のなかで「よせかた」「たまぎわ」のしつこさけっして、わるくはかった「から」さきに、つながるとい
うことは、言える、しかしなんですっぽり、教えられたその他の単純なことを忘れるのだろうか?よくわからな
いところである。


(記録:相川)