クリニック(#32)

2005年7月07日(木) 1200-1450 練習@栄光


試験明け、だが、以前のように、すぐ「走れなくなる」「すぐ」「腰にてをあてる」すぐ「高いボールに逃げ腰になる」というようなことはなくなった。
好意的に言えば、「サッカーそのものをずっと、ゲームをやらせるという」「かたちで」追求している「ので」そういう方法に適合してきたのではないかと、思える。

選手には「試験明け」だから「意識が」「さー、相川が言うサッカーを」「やるぞ」というものには「なっていないはずだから」そういう意味では「確認」が今日のテーマ、自分なら、ロングを蹴って見たり「ショート」が寸秒の違いなく、ねらったところにいくかとか、プレスを受けても、冷静かだとか、顔が立っているかとかをチェックする、だろう「よせ」がはやいかどうかは、あまり気にならない。

ただ選手には言わないが(言っても、集中しないだろうと思っている)きょうから「MFの守備」ということに、手をつける、ということを考えてきた。
サッカーは「相手の攻撃法に」こちらが「さーどうそなえれば、基本的には、うまく守れて」で「だからこそ、こちらの攻撃」「が」うまくいく、ということがある。

相手が蹴ってくる(そういうモード下)「では」「こちらが、なにをやるのか?」
相手が、つないでくる(蹴りとはまた別なモード下)「では」「こちらはなにをやるのか?」
当然、対応策が異なるわけだ。両方を覚えなくてはならない。

1学期に教えたことで過去の栄光と違うことは、
1) 相手がキーパー起点で蹴ってくる、それにはどういう守り方をすべきか?そこを徹底した、ただしきょうあたりは、「セカンド」や「サード」をからだはる、という「意識」にならない、まさに試験明けであろう、しかし、そこで「互角以上にやるべきことを、やれば」対茅ケ崎西浜の試合のようになる。

2) ただしコーチは当然「先を見ているから」相手が、「つなぎ」で栄光にきたとき、その対策を「どうとるか」教えねばならぬ、と思っている、しかし、そう言う守備のグループ戦術がどうだこうだ、という手前で、「たまぎわ、強く」といわば、個人への要請が先にきている、それをふまえたうえで、相手が、どういう経緯であれ、つなぎだしたときに、それを「こちらのハーフが」「一言、相手のハーフを、守備で、押さえられたら」それでベスト4まで行けるという考えの持ち主である。で、ここを触り始めたということだろう

3) ハーフに自由に「攻撃させて」=あがる、守るときは「走りもどってきて」相手ハーフを「つかまえる」例により、グループ戦術と「して」それをどうこうではなく、下地として「あがり(=アップし)」しかし「もどる(=ダウンする)」そして「相手のハーフをつかむ(=ピックアップ)というそういうたくましさがまず先行であろう。

4) そういうものさしからみたら、「でぐち」うまい選手だが、守備能は「ない」なぜかといえば、中盤で「どうやったら、相手からボールをでぐち」が「とろうとしているか」そこの特色が「見えない」いのうえも「しかり」たかはしなどは「守るそのものがない」「たかい」は、最初から「ひいていて」それで守るということはするが、それはコーチにしてみたら「ちがうだろう」である「あがって、いわば、不利な状況になって」しかれども「もどる」そして「相手にからだをぶつけるか?」「カットが得意か?」そういう所を見ているわけで、そう言う意味で、「こいつが守備ハーフだ」ねという、観察結果を得ない。みなさんにわかりやすくいえば「ふくにし」は今この瞬間では最高の守備ハーフでしょう。

トップを見ていると、「みうら」次第に、相川のサッカーはわかってきたのか?中央で動こう、中央でボールを受けようとしている、みうら、いまご、いけだ、あたりが目立ってきた。あと、手をつけていくのは「なかた」だろうか「本人は体力に自信があるのか?」しかし、ハーフの「どこをやらせる」という特色はない、パッサ-としての特色を観察しないからである。
さとうは遅いということは、昔のままだが、つかわざるを得ないだろう、あがりめでは「ない」

悲しいといえば、悲しいのだが、練習が「つみあげ」をこなしていくと、きょうの「かわかみ」だとか「はしもと」のように、昔と、サッカー部同じだという奇妙な「錯覚のもと」部活に出てきている「児童」が顕著になってくる。つまり「こだま」でさえも「今この瞬間の、チームの課題」のようなこと「わかっているとは思えない」が「まずいことをしたらいけない」というような気持ちが汲み取れる。

当然、「かわかみ」そこが「わからない」例えば「「たいら」「少しゲームのなかに、はいってこれたかな」という感じをもつ。ありていにいえば「へたなのだが」だからといって部活動では「排斥はされない」という方針のもと、「へたなりに」ゲームを楽しめる、というところにさしかかってきたはずである。しかしきょうやりだまにあがっている「かわかみ」やら「はしもと」はむろん、「んあいがなんだか、わからない」という心的状態にいるはずである。そういうやつを「どうするか」が、問題であるが、固定された答えがあるわけではない。

本人たちが「なんかおかしいね」「おーい、昔みたいに、みんなで、にやにやしながら」「サッカー(もどき)やろうぜ」と仮に思っても、「他の連中は、それぞれ、必死におもには」「ボールなくしたら」「だめだ」とか「相手によせかけて、はげしく、挑戦という」ことを、やろうとしている、そういう「なかで」「できない」(できないのは本人たちがいけないわけだ、まさかそうなるとはおもっていなかった)一番うまいやつがだれだか、そんなことはしらないけれど、「いちばん、ぶきようなだれそれだって、なんか、必死こいてやっている」のだけど「ぼくはどうしたら?」といわれても、それは「少し以前のつみあげ過程に」「きみはいなかった」からではないの?ということになる。


(記録:相川)