選手の登用「考え方」

2004年11月13日(土)

東京の選手権は結局、帝京対堀越、「実践(日学1-1わけ)」対暁星、ということらしい、
だからいわんこっちゃない、と誰に言うのか?
言ったところで、かいなし、言う相手もいない。

こういうことはいくらでも昔からあるわけだ、だからこころのなかでは、あるチームの「サッカーの内容好きだ、嫌いだはおいて、」「勝ち残る」ということつまりは「成功」をどうやって手に「するか?」人生そのものだという気がする。

人生の鉄則は、敗者にはなにもやるなというやつだが、いきつけののみやのおやじからさえ「相川さんは、自分がやっている仕事をひとに話さないね」といわれる始末である。
むろん「成功すれば」はなす。
さもなければ、黙っている、というだけのことだが。

そうやって気がついたら、あっというまに、時間は過ぎて、「なにをやっていたのだろうか」という思いも、ないわけでもない。
ただ、もともとサッカー、を使って遊んでいるわけだから、連戦連勝だったから、といって、過ぎ行く、時間というだれも勝てない相手にむかって、もの思えば、結局は同じだろう、と。

東京の、ローカル新人戦はすでにふたつ消化して、11月21日に国士舘と決着をつけるという、話しになっている、まったく試合「から」試合へと人生は進んで、倦む事はない。
これでいいのか?
でも、サッカーはおもしろいからね。
それでいいのだとおもう。

ところが、国士舘は都立目黒を5-2でやつけて、21日に進んできたわけだが、その試合は「つないできた」
だからといって、21日、こちら相手に、つないで「やってくる」保証がないので、2週間相手がつないできたら、こうやつける、蹴ってきたら、こうやつける、という練習をやってきたのに、水曜日に「対、蹴り」守備の中心プレイヤーとして予定していた、1年生のストッパーが、たぶん大腿内転筋の疲労炎症だろう、全治2週間で、アウトになって、「今度は勝つだろう」という予定が、すこしぐらつきだした。

この1年生は、グラウンドで攻められると、まだ「なにもないのだが」空中戦は、まずは代表でいえばまつだみたいなやつで、まずは、負けない、つまりは、守備の大部分を、こちらが勝てる、という読みが、保証されるやつなのだが、それが使えないということになれば、どういうように相手を迎撃しようかというのが、木曜日は雨で練習できんかったので、金曜日、土曜日に整理しえちかなければならないことになる。

というか、国士舘が対目黒のように「つないでくる」のか「それは、フェイントで、蹴ってくるのか?」(ついでにいえば、21日、どちらが勝っても、23日逆山からでてくる相手は、どちらも都立、だから両チームとも、21日が決勝だと思っているつまり、どんな手を使おうが、勝つという意志でやってくるはずだから、相川さん、心のそこで、つないではこないんじゃないのか、と一応、読んでいるわけだ)そこはいずれにせよ、試合が始まって、「わかる」

わかって、そのときに、「虚」をつかれるわけにはいかないから「蹴ってくるなら」こういうスターターだな、「つないでくるなら」ああ言うスターターだな、でも途中で、相手が変えて来る場合にそなえて、例えば、対つなぎにいれたが、相手がハイボール多用しだしたら、その選手少し、苦手で、機能しなければ、交代ということまで考えていくわけで、理想はラインが全員、ハイボールに強い、MFは、じぶんたちからしかけるいわば創造性「も」もつが、必要なら「勘にしたがってでよいから、こぼれだま」にからだ、はれることができるという、両機能をもっていることがのぞましい。
フォワードはどちらであれ、「こちらのやりたいことを、相手にしかけるのだから」そのどちらかしかできないでもかまわない。

しかしそういう理想になかなかうまくいかないのが、高校サッカーというものだろうと、思っている。

好い例が別に、名もないチームでも
去年のやつらが全員、残っていて、今年のやつらと、あわせてチームつくれる、というなら、優勝宣言してやる、ということだ。
ここらへんの表現が理解できる読者は立派な、現場のコーチだといえる。

そう言う意味で、代表というのは、代表監督の選手選考眼が、狂っていなければ、両機能を(うまさと強さ)もつ選手、どちらかひとつの機能しかもたないが、それが際立つ選手、その両方を選べるはずだろうから、あとは、相手の出方を「観察するだけではだめで」「想像しなければだめ」ということではないか?

シンガポール戦、まず功労者である、かず、だ、ごん、だを出すとかいう、サッカーのプロモーターみたいなジーコの発想があって、マスコミによればJの各チームの袋だたきにあったと。
で、そのアイデアはつぶれた、が、藤田俊哉がでてきた、三浦あつしがでてきたというそういうゲームになった。

こういうところが、このひと=ジーコは、コーチじゃないね、というあやういところを感じさせる。
偉大なせんしゅであったから、コーチングの方法を知らなくても、ゲームというものがどうなると、壊れる、どうなると、攻勢にでられる、そういうことは知っている、だがコーチとしての信念はなさそうだ。

あるのは、サッカー屋といおうかジーコ屋という商売を維持するための、動物的勘であろう、玉田がゴールした1-0をスタートに、景気よく、大量点をあげて、埼玉スタジアムの、サポーターが熱狂して、「次ぎもたのむぞ」というそういう雰囲気を演出できなければいけなかった、演出できるはずであったと戦前思ったのではないか、ところが、空気が「ちがってきて」サントス投入ということのような気がするわけである。

例えば、「なぜ、藤田は代表ではほとんど、ベンチなのか?」当然に、監督に、「判断根拠」がある。
高校のコーチにさえ、先述したように、ドリブル小僧が中学からあがってきても「簡単には」そいつを「戦力とは考えない」2年生、3年生になって、そいつが、「確かにドリブルをさせたら」1点はとれそうな場面を作る「しかし」体力がひ弱いだけではなく、だいたいからして、そういうボールスキルがある子供は、子供なりに「おのれの良い点にこだわって」彼からしたら「肉弾をぶつけあう」ようにしか見えない、こぼれだまを確保する、場面で、深層心理的に、『逃げ回る』と言うようなことが確かにある。

だから高校コーチは、できればドリブル小僧に筋力つけて、要は、闘えるやつにしたいなと思うのだが、「あまり(高校時代では)成功しない」それは男性ホルモンが筋肉に及ぼす影響が。そういうやつに限っては高校年代にマッチというかシンクロしないからだ。

だから、ドリブル小僧を使って、なお勝つ、ということに、えらく神経を使うわけである。

代表では、では藤田ではなくて、しゅんすけとか、おのとかなかたを偏重していくわけだが、多聞鍵は、強さと創造力のバランスか、しゅんすけなんかはバランスではなくて、創造力に「かけたい」ということだろう、だから、イタリアあたりから「しゅんすけ」と「なかた」の塀用などはないだろう、と言われてしまうわけである。

そういう脈絡からは多聞「ふじた」はものたりないわけだろう。

それはそれでいいのである。

ところがだったら「なぜ、ふじた」をチームに置いておくのか?というそういう『置いておく以上は』その選手単独での意味、あるいはだれかを補完というかしゅんすけが百歩ゆずって、バランスはないものの、攻勢に転じる得がたい才能であるとして、中盤の守備力が、おちることを、補完するために「だれそれ」は代表にいる、というそういうチームワーク的発想で代表があったて、まずいことではあるまい。

むろん30年に1度はやってくる豪華布陣の代表ではその22人全員が、自分は余人にかえがたい、というそういうチームであるのかもしれない。

自分はだれそれの尻拭いをするために、代表にいるわけではない、というように。
こういうチームが、勝つわけでは必ずしもないという話もすぐでてくるが、それはまたどこかで、やりましょう。

ただ、もしわたしのように、考えるならば、このシンガポール戦はあたりまえだが、次ぎの第2次予選で「どうするのか?」というシナリオのもと「選手をまず選び」「攻撃的な相手」にどう戦うかというのは理屈のうえではあっても、もはや、2次予選に行くのだから、事実は、相手はかくした、であって、相手が攻撃的である、ということはない。

言葉としては、守備的に、相手がくるな、とは言えても、それが、どういう「守りの、戦い方」をするか、想像はあっても、それはやはり試合がはじまらない、限り、わからない、
わからないなりに、ぎりぎり考えて、で、そこからが問題だろうが、
こちらのトップに、ハーフがどういう攻撃をするのか?そういうことにテーマと、選手の動き方のだいたいの方法を求めて、いわゆるサブに、試合のシナリオを理解させることであろう。

で、観客は不満かもしれないが、わかりやすくいえば、しゅんすけ、も、なかたも、おのも、使えない「から」ふじただ、サブのハーフを使うのだが、トップはすずきであり、できれば、たかはらということになろう、つまり、本番のトップをサブのハーフが使えるのか?
いやその逆でもいい、サブのトップを本番のハーフがどう使うか?
当然、そういうことが理屈であろう。

さて、その結果の評価がでたら、単独のチームでは良い選手であっても、代表では「サブ」としても、機能しなければ、入れ替えをするしかないわけである。

21日にどういう結果になるかは、このあいだまでは「勝ちだな」となにしろ、勝たないと、新人戦都大会に出られないのはあたりまえ、関東大会予選もでられない2005年の6月まで公式試合が空白になるわけで必死だが、ここにきて、予断は許されなくなった。

金曜日もグラウンド使えず、こちらは頭脳労働になる。
まーおもしろいといえば、おもしろい。