敗戦分析後のフォロー試合

2003年10月14日(火)

10月12日(日)埼玉に、国際学院という、埼玉なら、浦和南だ、大山先生のところの武南だという「固定観念」からしたら「えっつ、そこってなーに」というチームがあってそこと練習試合をやりに行った、国道17号浦和バイパスの上を走る高速を与野で降りて、バイパスを北上、隣は、伊那じゃないの、というあたりで、看板みつけて、その学校の所在地をみつけた。
秋田商業→三菱、もと全日本、田口がこのチームの面倒見ているということで、むこうに田口の巨体が見えた、いやーどうもどうもその節はおせわになりました、とは言うが別に田口に世話になったわけではないが、彼が三菱のゴールを守っているとき、読売はなかなか勝てなかった、今でも、覚えているのだが、初めて、三菱を公式戦でやつけて、そのあと当時、私は、世田谷の経堂に住んでいたので、スカイライン、ターボの車で環7を走りながら、思わず、ブラジル選手にもらった、ブラジル音楽のテープのボリュームを大きくして、走った「ざまー見ろ、三菱」とののしった。

そんなことで人生が成り立った、日々である。
相川(田口の巨体に)「ますます痩せてるね」
田口「今も成長してるんです」と、握手。

試合は、日本学園、新チーム、初めてのゲームであった。
2トップは「いる」ハーフもいそうだ。それでもこちらが前に押したてるハーフが相手のプレスに「仕事」ができないのではないかという正当な心配を事前にして、では、ハーフがマークされたら「どうしよう」と、10月05日に負けたチーム、いや、負けはしなかったが勝たなかったチームは、ついにバックのラインから、タイミングよく「つなぎに、参加」するということができなかったチームである、で、この1週間、そういう練習ばかりした、
あがって、きて「プレスをかけられそうな、ハーフにはやく」「サポートを与えろ」と言う意味である。
そしてかつ、そのサポートにでてくる「はやさ」を要求した。

そこで「ハーフ起点」の攻撃と「トップ起点の攻撃」というわけかたをした、
誤解をおそれず言えば、ハーフ起点の攻撃とは、本来はハーフ→トップとつながれば、それがサッカーなのだが、ハーフがトップのどこにつけたら良いのか、状況判断をするのが遅いときには、ハーフ→あがってくるバックあるいはハーフに横パスをだせと、そこで「縦、横」の判断を「はやく」と言う要求である、バックパス、ハーフ→バックは「だめとした」
いつも縦に出すんだという緊張感を練習中から追求させた、具体的には、7対7で、バックパスを用いたら、「はい、交代ということにした」

ハーフは「縦を見るが」「フォワードには、パスが行かないという判断なら」横を用いろというあたりまえである。ただし、プレス守備全盛の今では、ここは議論を呼ぶところだろう、
ハーフが自己陶酔におちこんで、遅くても「なんとかトップに」という態度というか判断スピードをあげさせて、ハーフ→ハーフ(バック)に速く、切り替えろという、指示である。
どうしても「ここがわからない」ハーフがいる。
ハーフからのいわば「芸のあるパス」にこだわって(パス出しが)「遅くなり、かつパスを待ち構えている相手にとられるやつだ」と定義している。
芸のあるパスにこだわってもいいが「通してね」だろう。
通せないなら、芸のあるパスを捨てて「パスアンドゴーしろだろう」と思っている。
パスゴーしたら、簡潔にいえば、それは言って見れば「相手を念のために、そのゴー=ランを、マークしておかなければ、シュートを撃たれると思わせる程度の意味しかない、
だから新チームスタートのときも、「シュートに意識を切り替えろ」とは言った。

ゲームは2―3、国際の勝利、B戦は2―1学園勝利、だが勝敗この時期どうでもよいマタ‐であった。
田口に「礼を言って」グラウンドを去った。

浦和バイパスはそのまま地上を通って、首都高速に乗った
パーキングエリアで昼食、豚汁定食。
赤坂にもどった。

2003年10月13日(火)

学芸大学に行く。三軒茶屋の横から、昔は、明治薬科大学キャンパスがあったところ今は巨大団地があるほうに抜けて、学芸大学付属高校にむかう。

雷雨でそののちのゲームもすべて終了。
負けてもしかたがないが、どうも精神が弛緩する季節である。