「うまい」だけでは、勝てない

2004年10月11日(月)選手権都大会2回戦、対実践、1-1PK負け

何事もそうだが、意図的にとりくむことであれ、無意識にやっていることであれ、「人間のやっていることだから」その効果、結果が、人知には測れぬ、影響を与えるということは、ある。

だから、負けたことには、意味はないのだが、負けようが、勝とうが、「そこにまでいたった」過程が現に、この世で人生を送って行く、誰かや、なにかに、影響を与えるということはある、

ただそれは凡夫・匹夫のたぐいである自分などには、とてもではないけれど、読み切れない、そして、その影響のスパンだって20年、30年にもわたるのだから、「きょうこの日」になにが知れようか?というものだ。

1-1で延長Vゴールに突入していって、こちらの、勝負はいをだしていって、確かに、その勝負はいが「あとすこし」という場面を何度も、つくった「から」には、自分の頭脳も壊れているわけではないのだろう。

しかし結果100分使って、相手をつきはなせず、11人目までのPK戦で、最後、あっけなく、こちらのキーパーはぬるい頭の選手なのだが、その表現のままにふらっと、蹴ったボールが最初から、枠はずれ、あきらかに、決着ついてしまった。

今年卒業していったOBが、試合ののち「あいさつにきて」『毎年同じだな』と、言ったのだが、まったくそのとおりである。

どうしてだろうか?
というテーマは「ない」

このレベルというかより正確に言えば、今のように良いか悪いかは別に「情報が行きとどいている時代」では、東京でいえば、都立で偶然に選手がそろってでてくる都立「ではなく」体育課もっていて、実績もあれば選手も集まってくる都立、それから、当然選手権をねらう私立、そこらへんのうちに、日学もはいっているのだが、よほどにメンバーそろえなければ、要は、1点勝負の試合に「なるのであって」それ以外の試合の「ありよう」は考えられない。

だから、たちあがり、いきなり相手の7番に左足ふられて0-1が誤算であったが、後半こちらの守備をなおして、開始直後に、1-1に追いついて、そこから先、後半はむしろ相手が「ひいて」日学は危ない場面がなくなった。

だからそこで、決着つけなければ(つまりPKなら負けるという意識あるからである)ということだが、守備ハーフを2ストッパーの前に『置く』布陣なので、「そこ」をいじると失点するかも(事実先述したこちらの守備なおして、というところは具体的には、その守備ハーフにラインの前に「いろ」といっただけで)という恐れが、あるわけである。

ただ、この日記を読んでいてくれる、コーチのひとには正直に言うが、ハーフをひとりラインの前に、置いているから、どうしても「こぼれだま」とれない、中盤でつなげないという現象は「見えていた」わけである。

だから選択肢は、「だれをひっこめるか」は別に、「要はハーフをいれる」ということであったのだが、そこはいいわけではなくて、攻撃をできるハーフをいれるのいが正解だが、そのハーフが守備力はないという現実に決断がつかなかった、という話しである。

そういうハーフ(守備も攻撃も)準備するのがコーチの仕事ではある。

しかし、そこは、単独のチームではなかなかうまくはいかない。

現に、10月09日(土)は、3軍ぐらいのチームをつれて、町田の忠生高校と練習試合などしてきた。

相手12人しかいない。
笑いながらサッカーやっている、いちばん嫌いなチーム、そういう態度ではだめだ、と先生も怒れないわけだ。

どうして「たかがサッカーで、そこまで、テンション高くしなければいけないのですか」みたいに、反論してきそうな、おばかな指導者がいるチームだろう。

誤解されたくないが、どこのチームにいっても、「ゲームはおまえたちのものだ」という。
指導者としても「勝ちたい」だが、指導者「の」エゴで選手を拘束ではないだろう。

選手が勝ちたい、と思うそのためにサッカーを「自学、自習」それだけが、上達のこつだろうと思っている。

で、そのゲームでこちらの1年生のある選手が「実に、うまいサッカーを」やるということを、見てきた、しかし、彼は小柄である、多聞あと1年半、鍛えても、このレベルのパワーに対応できそうもない、という懸念を「同時に、もつ」

単独のチーム、クラマーさんはよく言うのだが選手がはいってくる「いり口」のドアが開いていないと、ということでいえば、まだドアがよく開いていない、と言える。

うまいやつは、ごまんといるのだが、「うまい」だけでは、勝てない、というだけのことだろう。

負けたあと、ジュビロ、ユースと広島ユースの試合を見ていて、同じようなことを思った。

アナウンサーが、どちらのチームの選手の何名かが、そのままプロに行きます、というのだがわたしなんかは「ふーん」である。

かろうじて、広島の左利きのトップに「まーいくのかなあー」である。

自分は、ここではコーチ」として「ものを言っているのではない」そうではなくて、サッカー好きなやつとして、見ていて「だめじゃん、そのシュートの力弱さ」では、それは「金はらって見に行きたくないぜ」というそういう感想である。

確かにうまい。

ただしスーパーにうまいとは思わない。

やっていることで(チームのかってだが)それってちがうんじゃないの、とそこはコーチとして「つっこみ」いれたくなることも多々ある、だがそういうことは「今はよい」

大人になって、別なコーチにあって指導受ければ、また、ちがった選手にもなっていくだろう、しかし、ゴール前の迫力のなさは、悪いけれど「こいつら出世していっても」結局、今の日本のサッカーにある悪しきというか、不満がある、当面の問題は結局解決しそうもないんだよね、ということではないか?

むろん、自分のところも同じである。

相手をつき放せないのは、要は、トップである。(むろんその手前の問題は、ハーフ、さらに手前は、バックだというのが簡単なサッカーの秘訣だろうが)

かれらを責めているのではなくて、事実を言っているだけである。

コーチはサッカーを通して、この人生で「遊んでいる」わけだが、トップの守備における労働量で「遊びたい」とは決して思わない。思うやつがいるのは勝ってだが、

例えにだすほどのチームでもないがプリンスリーグ全敗の実践もある意味で、日学つきはなせないで、PK11人まで行ったという見方もできる。

どうでもよいことだが、この実践のトップでは、せこいサッカーやるっきゃないのだが、そう言う意味では、どっちもどっちだ。

だから、自分などローカルルールで、PK合戦はやめて、枠のなかヘ飛んだシュート数で、あるいはキーパーが触った、シュート数の、差異で(公式記録)ひきわけの場合は、勝ち残り決めろ、という主張である。

そうしたら故意にゆるくてもいいから「枠にとばす」ひきわけねらいの、シュート数上位で、勝ちぬこうとするチームがでてくるだろうか?それは考えにくい、のがサッカーである。

わかりにくいのはどちらかといえば、ロングシュートだろう、それも枠にとんで、キーパーがとったとかいうのはまだいいし、バックにあたってコーナーになるのはいいが、そうでなくてバックにあたって、こぼれたのをどう切り分けるか、ということだろう。

とんでもない距離から故意に、蹴ってバックにあたったり、クリヤーされて「アレはシュートだ」と言い出すかもしれない。

その判定というか評価で「白黒つけられないから」やはり「PK合戦でというかもしれない」

だからそのローカルルールの細部は別に、それが採用されれば、攻撃をよりうまく「したチーム」がひきわけでも上位進出する、日本のかわりに、カタールであったろう、韓国はPK合戦に勝つまでもなく、日本に勝ったろう。

確かにわかっていることがある。

大きな大会、例えば、ワールドカップでさえ、攻撃優位チーム対同じく遜色のない攻撃優位チームのくみあわせ、など死ぬまで見られないのではないだろうかということである。

02年ブラジル対ドイツはどうであったのか?

自分が若い頃、ドイツ(当時は西ドイツ)対オランダなどはおもしろかった、あるいは高地で、酸素がうすい条件ゆえに、今から思えば、今のサッカーとはだいぶことなるが、70年メキシコのイタリア対西独も凄かった。興奮した。
だからサッカーで興奮したい。

別に自分のチームがどうこうではなくて。
(この項終り)