行臓は我にあり


2005年10月03日(月)

10月にしては真夏日という、暑い国立。
ここに来るには、外苑から高速に乗るわけだが、日曜日などは、青山通りを澁谷に向かってホンダの本社ビル少し過ぎたあたりで、右折して絵画館前に向かって、いくはずが、外苑侵入禁止で、慶応病院のほうから、高速外苑入リ口に向かう。

10月の空の高さを実感して、中央高速を走る。

それに「感じ入るか否かは」ひとそれぞれだが、現代的な、道具立て、例えば、レインボー・ブリッジなら、どちらの側からその橋を渡っても、東京と言う大きな都会のもつ、美しい、ビューに息を呑むということはある。

そういう道具立てがまだなかったころは、松任谷由美にしてみたら、この中央高速が、―――に見える競馬場とかビール工場(サントリーのそれだ)とか、詩情をかきたてたようだが、この中央高速のよいところは、調布のあたりまできたら、前方はるかに多摩ニュータウンやらさらにその奥の秩父の山並が見えることであろうに。

車は、その山並にむかって吸い込まれるように、はしるのだが実際には、八王子を過ぎたあたりからは、神奈川県境の山間地帯にすぐはいって、あとは、甲州路のけわしい山岳のあいだを縫うだけの高速になっていくのは衆知のことである。

ってなことを考えて車を走らせていたわけではなくて、選手権予選、の都大会、1回戦の、対都立竹早の試合を「どうしたら」その次の、國學院久我山の試合に「リンク」させていくか、を、考えていた。

竹早のことまったく知らないわけだが、それは万が一にも負けることはなくて、ただ久我山得意の先遣隊はビデオもって、やってくるにきまっているので、(またそれはべつに、どうでもよいことなのだが)できればこちらの手のうち、見せたくはない、また対久我山の戦略どうするか、どうするかもなくて、やってきたことを「ただやるだけなのだが」そのやってきたことを「うまく、やるために、こちらの先発」どうしたらよいか?そのことを考えるには、この竹早戦、参考になるという、そういうことをまたくりかえして、考えるわけである。

国立にはしゃれた、カフェなどあって、コーヒーなど飲みながら、また「なにか考え落としたことないかね」とでも行きたいところだが、そこまで濃密に考えるほどのゲームでもないので、停めた車のなかで新聞など読みながら、時間を殺す。

前の試合の東海大付属高輪台と、どこかの試合見るつもりもない。

東海大が勝って、多分かれらは、本郷と次の試合か?どっちが勝ってきても、久我山を突破できれば、その次も突破できるわけで、そうなればそこでもうベスト8になるというのだから、大一番はあくまで次週のことである。

彼我の客観的力量の差はむこうが6割こちらが4割というところか、つまりは劣勢というわけだ。
だから普通に久我山が勝てば、他人は「さもあろう」だろう、そこをひっくりかえす、いわば勝機とは「なにか?」ということをずっと自問しているわけである。

その勝機をこの竹早戦から、探せるかもしれない。

試合前のアップからして、相手のそれは腹が立つものであった。
ブラジル体操、長々やらせていた。
それに日本的な、声かけをミックスした、ほんとうに非知性的な方法である。

ブラジル人はそもそも準備体操などバカにしていた、そこでサンバのリズムをとりいれて、いわゆる準備体操をくみあげた。

個人主義が大切なブラジルでは、その体操をみんなで動作とリズムをシンクロさせることなどに関心があるのでなく、ボールなしの、練習をいかに、選手の興味を維持させるかというところにあるわけだから、日本的な同調主義が最高という考えをそこにあわせると、声かけて、ひとつひとつの動作をシンクロさせなければ「きみは、おかしい」ということのようだ。

しかしさっと見た瞬間に、そのブラジル体操で、「こいつは、からだに切れある」ねとか「こいつのからだがもっているリズムはスピードありそうだ」という選手はむろんひとりもいない。
だから試合やる前に、きょうの試合は、試合以前だろう、というように思うわけである。

で、試合そのものは、結果2-0だが、相手のシュートゼロということになった。

だが勝機を、探せると言う事はなかった。
これで32ということになった。ずっと前から選手には「どう考えても、都内にあるチームの20番以内に、おまえらはいっているよね」とでもその20番以内のチームにあたって、「はいやりなおし」と言われてきたんだと、で、その20番以内のチームとやっていかにしたら「勝つか?」だけが、今年のテーマではないのかといい続けてきたわけだから、やっぱりその局面に「またはいってきたわけである」
ささいなことなのか?
それなりの成果なのか?
褒貶は他者に存す、行臓は我にあり。

コーチのための言葉のようなものである。
(この項終り)