セオリー論

2003年9月27日(土)

雨で9月24日、25日と、練習はキャンセルであった。

以前のコーチング日記だと、サッカーから離れて、どこそこへやっこ凧のようにふらふらしました、目腐れ金使いました、あれこれと、身体に悪いことしてます、というようなことを書いていたわけだが、それはまとめて恋愛日記のほうに書いてある。

その恋愛日記のほうにはすでに、挙げておいたのだが、後輩の高山さんが知らせてくれた「カンバセ-ションピース」という小説を、相川さんも読んでくれ、という推薦のメールがきたので、本屋に行ったら、1,800円で分厚い本なので、大勝負の前に詠むこともないなと思って、代りに、東 公平の升田幸三物語なんてのを買ってきて、読んだ。

きょうは、色川武大の私の旧約聖書を買ってきて読んでいる。

色川さんあるいは麻田哲也さんとは最初に赤坂に住んでいたときに、夜、赤坂通りですれ違ったことがある。

いきなり運気というような、ことを言い出す、そういう人物がまずまず誠実に「書いた」として、それ(私の旧約聖書)を読むほうが予想される、カンバセ-ションピースの内容に比べたら、1週間後のゲームに思いをはせるときに参考になるだろう、とそういう、思いである。

私は、普段は「こんな本に、こんな作者が、あんなことを」書きましたというようにして、原稿を埋める必要のない、立場だから、ほとんどそういう書き方をしてこない、ただ18ページあたりに、この色川さんの言う所「良いな」、覚えておいて、自分が「動けなくなったとき、思い出そうと」傍線をつけたところがあった。

コーチにも充分に良い言葉である。以下ご紹介する。

ここでは色川さんはお金のことについて「ともかくじぶんでもって、なにかここだけは疑えない、ここまでのところはまず原理として了承しようという線をひいて、いくつでもいいからその原理をもってることなんじゃないかな、 構え方としては、だから金は借りれば、返した所で借りる前の状態に戻るわけじゃないとか、金を借りることが第1目的だと限定すれば、ここまではとにかく疑問の余地がないとか、そう言う根拠を作っていってそれが構えになるんじゃないかと思うんですね」と、まず言っているが、ここは正直相川さん理解できない、なんだかわからないが、根拠を作れといっているように解釈したが、そのあとはよい

「基本的なセオリーとはそういうもので、それより細かいことはセオリーじゃないですね」と続く、で、一番皆さんにも考えて欲しい部分がこのあとにきて、私は、そこを読んでほとんど「泣いたくらいだ」
「かえって細かいセオリーというのは自由がきかなくなってくる」「なんか概念てきになるとか、あるいは答えが動かし得ないようなものになってしまってね」という、このところ、「だから細かいところはずぼらなほうがいいんじゃないでしょうかね」

「答えが動かし得ないようなものになってしまってね」ここが泣く所。

また別なところで同じことだと思うが、こうも言う。

「学校で教えない浮世のことというのは、条件に例外的事情が出がちでしょう。そうだとすれば、そういったものに対して、反射的にセオリーにのっとった行為ができるようにしておく必要があるわけですね。博打の場合で言えば、ちょっと辛い相手だと思ったら、それができなければ凌ぎがきかない。ぼくの場合ひとつの種目を覚えるということは眺めることでしたね。自分の懐は絶えず少ないし、見習期間に負けたりしたら、授業料が払いきれなくなりますからね、だから眺めて覚えたわけですね。そのときにいろんな例外的現象のデータを蓄積するだけでは駄目なんです」「瞬間的に打てる手を見つけ出さないと」 「仮にルーレットで赤ばかりが20回も続けて出るなんていう予測のつかない例外的現象が起こってきたときに、理屈じゃなくて、反射的に体がどう動けるか。そこのところの見極めがついてからでないと手がだせないですね」

「さっきいった前哨戦に臆病になるというのも、例外的状況に反射的に体が動き得るかという見極めがつくまでの段階で臆病になるという意味もあるんです」とも続けている。

サッカーは外国からやってきたものではある、だからといって、日本で今行われている、このスポーツを、日本語でいかに表すか?サイドキックはサイドキックでよいのか?フラットを日本語でいうと、どう解析できるのか?そういう仕事が残っている。

博打を打って生涯をすごした、色川さんの経験とその洞察は、色川さんに、もうひとつ天が与えた、言葉をそこにあてて表現させたら、水準を超える能力があるので、それで、博打とは無縁だが勝負事の末端につらなる、自分にも、「なるほど」と思わせる一文がこうやって残されるのである。

今度の対国分寺、対暁星のステージでは、相川さん
「答えが動かし得ないようなものになってしまってね」
という色川さんの指摘をつぶやきながら、試合の前まで、過ごそうと思う。
答えが事前に動かし得ない、というものになってしまうのも、もっぱらは「彼我の戦力分析」とか「相手の戦術への恐れ」とかから、やってくる自家中毒である。

だから事前、戦前分析は「やって」昨日なども選手に相手のサッカーのやりかたをこちらのサッカーのやりかたとをわざと比較対比しながら(浮き彫りにしたくてそういう説明のしかたをした)むろん、説明はした。

あるいはきょう駒沢で杉並とゲームをしたのだが、そこでも「杉並は杉並であって、国分寺ではない」「から、いわゆるシミュレーションには」「ならない」のだということを説得にかかった。

きょうのFC杉並はここ1年日本学園に負け続けているので、ただの練習試合なのだが、守備に神経をおいて、プレイしてきた、結果0-0、ただ攻撃時にどちらが戦術的に「動くか」というと、日本学園であった。
杉並は、攻撃時にはただ「ひとりがもって」「もうひとりにパス」は行くのだが「パスしたあとに動くのでもなく」ボールの動きも遅かった。

日本学園も3-5-2ではなく、3-4-1-2でやっていて、とくにサイド攻撃に関して、3-5-2だとサイド攻撃はウイングハーフ、サイド守備はウイングハーフ、では3-4-1-2だって同じではないかと思うのだが、サイド攻撃が「低い」ところから始まる、どうしてか?という疑問が残った。

低い所から始まるので、相手のラインをうしろにも、横にも引っ張るという効果が見られないようだ。そうなると、こちらの中央のハーフもなかなか、中盤をぬけていく、という結果が見られなかった。
もっとも杉並のボランチが、守備第1で90分「やってきた」ということもその原因であろう。

明日、日曜日は専修との試合中止、練習をやって、月曜日オフ、1週間をすごして国分寺戦である。
国立に(会場は桐朋高校)うまいそばやがあるので、買ったら、そばきりのような、そこのそばとビールで乾杯かなとひそかに考えたような、考えないような。
これで良いんですよね、色川先生。
(この項終わり)