誰がチームの未来を統括するのか?


2005年9月26日(月)

その試合はテレビで、見てのだが、大黒がはやくて、うまいステップ踏んで、鹿島のバックを瞬間、置き去りにして、左から、ゴールまえにショートクロスを通して、それをアラウイージョが、センスよく決めて、3-2としたとき、ガンバは「これで.勝ちだよ」と思った、はずであろう。

だれでもそう思う。

だがそのあと、ガンバのゴール前に長くて、高い、ボールが蹴られて、そこの落下点に向かった、「宮本」のほうが、先に、ボールをヘッドしたが、誰だか知らないけれど鹿島の選手が、そのボールに「自分が先に触れないが」「宮本にほんとうにうまく、からだぶつけて」宮本のヘッド・バックがつまりこぼれだまが「起るように、よせた」で、そのセカンドを鹿島がひろって、確かに、ガンバのラインは3人いるはずが、2人しかいなかったから(のちに、宮本が、そのことを指摘して、要するに、「俺の、せいじゃないんだ」ということを、言いたかったわけだろう)そのいないところに、相手がランして鹿島が拾った、こぼれだまはきれいに、パスになり、で、あとはそのシーンを説明することが、この日記の本意ではないから、おわかりだと思うが、3-3になった。

相川さんの感想は、だから「宮本」じゃ、無理なんだよねっていうもの。
相手の鹿島が「つないで、つないで、ガンバのラインやら、ハーフのすきをついて、で、シュート」っていうわけではない、いわば交通事故みたいなものだ。

誰も「そこの交差点で、ぶつかるとは思わない」がいろいろな、はずみが重なって、起きてしまったという意味で交通事故だといっている。

サッカーの攻撃そのものは、そのボールの流れを(走りを)黒板のうえに描いて(よくだぼらばかり書く新聞に、得点までの経過って図としてかいてある)その図のうえに書けないのは、タイミングというものだろう。

先週、柏にレイソル対ガンバ見に行ったとき、試合後、食事しながらの、歓談で、わたしの先輩の奥様が「宮本って、守備を統率するから、好い選手なのでしょう」と、言われて、
そういうときが、実は、一番困るという体験をくりかえしてきた。

サッカーがあらゆるひとたちを魅了するということは、大切なことである。

昔は、「どういうサッカーが良いサッカーで」というような、いわば、小僧コーチからしたら、闇夜のなかを、手探りして格好良くいえば、探究している場合、主には新聞の記事がサッカー専門家によって、書かれているとしたら、その先達の方々のそのゲームの見方なり、評価なりと、おのれの見たてを比較して、「だいたいは、おのれの至らぬところを、ひそかに、はらにおさめて」というような、そういう操作をしていたわけだ。

その方々に非礼なことをいいたいのではなくて、ご本人たちは、「サッカーはかくあるべし」といういわば、正統を述べられて、でご本人たちは、知らないわけだが、その発信を受けとめている、小僧コーチがいて、ダイアローグをしていたわけで、言ってみれば、いつか、その先達の方々に「誉められてみたい」という思いがあったといってよろしい。

ところがいつのまにか、そういう先達の方々のコメントが消えて、どうでも良いジャンクな評価が氾濫していて、読む気もしなくなったということになった。

で、宮本、統率が唯唯に類した、発信は普通のひとたちにも流れて、「どういうように、この議論に応じようかという」「普通のサッカー、大好き、宮本大好きのひとたちに、次ぎも、またサッカーのゲーム見にきてやってください、サッカーを愛してください」という範囲を超えない、言葉のやりとりどうしたらよかっぺかという、相川さんの、拙さの自覚というところに、やってきてしまうわけである。

宮本が、本人は統率がああだこうだと思っているかはしらないけれど、あのロングに「どんとこい」と、弾けていったら、当然、3-2でガンバ、勝っているわけだ。
彼を、責めても試合は、帰らないから、それはしないで、しかし、あとはどうする?

そこをくりかえすなら、ストッパーに、「速い」「高い」「頭もよいが」「戦闘力もすごい」そういうやつを、つれてくる、ということになる。

そういういわば、世代をいくらでも、シャッフルして、シャッフルして、で、それがプロサッカーだと思える。

ガンバが優勝できるかどうか?そこらへんを語る材料は、ないし興味もないのだが、攻撃力は素材を抱えているという意味で「ある」わけだが、レイソルに星をおとしてしまう、鹿島に追いつかれてしまう、ここらへんは、いかにも苦しい。

さて、そのレイソルだが、ガンバに勝ったあと、メデイアはやっぱり「ラモス効果」だと大騒ぎであった。
意地悪くなることもないのだが、では、今週、対ジュピロに0-1、ラモスはベンチで寝ていたのだろうか?

ここらへんが「練習をどうした」とか「動機をどうするとか」そういうテーマとは別にむずかしいところである。
まず自分が預かった、チームの現状での、ポジションというものを、意識するしかない。

高校生に言ったのだが、10月09日に久我山との試合に出て行って、グラウンドで、「おまえら、相手とにらみあった瞬間には気押されるんではないのか?」それじゃあ「闘わずしてだめなんだけれど」でもいくら言っても「そうなる」と。だからそれはそれでよいと。

ただ試合をやりながら、「人間ちょぼちょぼだよね」と、感じれば、それでよいと、つまり今は「自称、横綱」であっても世間は「まだ、前頭」だというその世間の見方、と、コーチの評価、そのふたつながらをくりこんで、自分たちは「奈辺にあるのか?」そこを見ないと、サッカーの試合のもって行き方、が決まらない、ということになる。

プロであると、弱いあるいは中位のチームには「観客こない」「良い選手こない」という現実がいつもつきつけられる。
高校も、観客のことはともかく、選手の面では、弱いチームには、とことん良い選手は当然「こない」それはそうだ、たった1度の高校生活で「サッカーに熱情かたむける」なら、今ならJのクラブに行くのが、ただしい道、高校にいくとしても、ベスト4だとかせいぜい8のチームを選ぶ。

そういう現実を解決するには、オウナーとコーチが連携するしかないので、それがなければ、問題は実は解決しないのだということは、あたりまえである。

Jでも同じで、プログラムを見れば、けっこう、その履歴では、そこそこの選手をみんな、もっているのだが、やはり、微妙な差異がトップ・クラスチームと、中位あるいは要は、弱いチームとのあいだに「ある」わけだから。

結局、弱者の戦いかたを、弱い(と、まず自覚することが先決)ほうは、採用するしかない。
それで結果がついて、弱い部類から(好選手が集まり始めて)中位に進んで、じゃー去年みたいに、およそ色気のないサッカーではなくて少しは、攻撃で、なんて言って見れば、進路というか、コンセプト変更なんてことをして、よく失敗するパターンが実際に多いが、それはそれとして、そこから成功していけば、強いチームに転換していける、というのが、わたしの個人的意見である。

監督の首切れば、なんとかなるって、狂騒がJリーグでもあるわけだ、このあいだもネルシーニョ解任である。いや深い事情もあろう。だから個別のケースのことは良いのだが。

あるいはサポーターの暴力かなわん、ということもあろう。

ただ、ここでも、日本、猿真似だろう。ヨーロッパやら南米の猿真似である。

ひとりの人間=コーチのなかに、すべての「問題」に対応できる能力があるのが望ましいのだが、多分そういうことはなくて、

成功している、オールスターチームをうまくやれる指導者
中位、あるいは弱いチームを上昇させていくことができる指導者
少年チームを上昇させていくことができる指導者

とこういうようにわかれるのではないか?

というのは、クラブの経営者=オウナーサイドが、自分のクラブのチームを誤解して、オールスターチームであると思い込んでしまったら、多分、「いや、このチームはまだ、鍛錬足りない」と感じる、コーチと組んで、それでも失敗する。
現場=コーチはいわば「ハングリーさ」を言いたてるが「フロントは」「うちは名門だから」なんて過去にあぐらかく、というのはありがちだから。

その逆に、フロントは危機意識もっているのだが、日本的な意味で、監督がトップチームだけでなく、育成の部分だって、責任をもってくれと要請されても、「それは契約にどう反映するのか?」という部分、わからない、つめられないだから、目先の1勝だけもとめて、がたがたになって去っていく、という場合もあるだろう。

ラモスの投入が奇策であるという意味はそこまで物事を考えたうえで、言っているわけである。
奇策だから、対ガンバでは成功したかもしれない、しかし結局サッカーはサッカーだから、奇策では「ない」戦略をいかに、追求していくか?その場合、トップチームの監督の責任範囲が「トップチームだけだ」というのなら、そのクラブ全体の、未来を統括していく「ひとは」誰なのだろうか?そこらへんが、まだ浅いんだろうね、いや、日本のサッカー業界がね。
(この項終り)