コーチの人生観


2005年9月20日(火)

いろいろなことが、起るのが人生だろう、だろうというのは、内心「起りすぎたら、いやだね」ってだれでも思うのだが、その個体の、思いなど、ぶっとばして、時代の運命に翻弄される、生もあるのかもしれないし、今は、どちらかといえば、有為転変、ふつううの人は考えにくい、安全な世界(予定調和っていう幻がけっこう、説得力のある、時代)になってきているのかもしれない。

だから、退屈するんだって、学生のころ、観念論で考えていたが、これは、実に未熟なことであった。いや、考えていたことはおおむねただしいが、観念論で、考えていた、ときはその思考もうすっぺらで、いってみれば「退屈」な日々、だろうというその日々を描写はできなかった。

じゃー今はって訊ねられたら、なんとなく「できそうだな」しかし、今の時代も、世界も、基調は退屈だが、(だから、みんな小泉に投票したんだ)って、わたしなんか、思っている。
「ばかだねー」とも思っている、しかし同時に、なんか人間って、こうやって、滅びて行くんだって、思っている。
まーそこは恋愛日記に書きたいのだが、恋愛日記でなくてこのごろは政治日記で、途中になって「こんなこと、だれも興味もたねーだろう」ってみんな途中で終って、ただコンピューターのハードデスクには、残っている。

おまえはサッカーコーチだからね、サッカーのことを考えていればよろしいのではないか?

土曜日、17日に赤坂から地下鉄、に乗って、柏駅前に現れた。
すでに、0720ぐらい、0700に試合は始まっているから、タクシーだねって、駅前に並んでいるタクシーの右側のウインドーをこつこつ叩いた、なぜならタクシー待ちのアイランドがあって、タクシーみんな、右側をそのアイランドにむけて駐車しているからには、右側から乗れると思うではないか?そしたら運転手が、左、左って、逆のドアをあけた。

こういうところがわからんよ。

でも運転手は「レイソルの試合やっているスタジアムへ行って」というわたしのリクエストはわかって「きょうは、多いね(スタジアムに行くひとが)」という、会話になった。さっきは東京からきたひとがさ「おおぐろ」と「たまだ」のフアンなんだって、「2人を見たいんだって」で、相川「違うチームじゃないの」「でも、そういうのあり」(なのが、この世なんだよね)「よんさま、大好きって、あれか」だろうね。

死んだ「江藤淳」のことを吉本隆明はどこかで「あのひとは、世の中を、正したかった」という言い方をしたのだが、現実のかべって、小説になんか描写されていないよ。

江藤が正したかったって、わかるような気がするけれど、相川さんは、良いか悪いか、けっこう認める、なにを?

だから衆生は、何でもありなんだよ、っていうことをね。
コーチからしたら、ヴェルデイ対ガンバ「見たら」「おいおい、おおぐろって、どこがいいの」と、相川さん「誰が相手にしてくれなくても」「敢然と」「言うぜ」だ。

いや、良い選手ではある。しかし、自分が「ガンバ」の監督なら、えらくしつこく「おおぐろ」を「どうやって、活かすの」をチームの課題にするですよ。

西野は「その点をさぼっている」と、わたしなんど、「思っています」
偶然に2週連続でおおぐろを「見た」わけだが、「この2試合では、おおぐろ、どこが良いのか?」日本サッカーのしがらみ、、無縁な「相川」あるいはメデイアの、「受けねらい」に無縁な相川、へいきですよ。
「おおぐろとか」なんもないぜって。そう言い切る。

つまり、江藤淳を自分は、隣人として、偉大な評論家として「ではなくて」考えれば、「正したかった」というのは「よいが」「あんたは、ただ文章を書いただけだよね」って思う。
現実と「切り結ぶ」隣人としてね、それはなかったよね、っていうことだ。

そのレイソル対ガンバの試合では、昔、読売で、活躍したラモスがコーチとして「現実ときりむすんでいるらしかった」
レイソルの監督「早野」もむろん、現実と切り結んでいるわけである。
それでも「早野」がなにを考えるのか?ではなくて、レイソルのフロントは、いかにもめずらしい「奇手」なのだが、ラモスを送りこんだ。

スタンドについたら、すぐ裏が記者席で、首をめぐらしたら「湯浅」が「生白い顔」でコンピューターをたたいていた。

生白いということを「わたしが」「いう」ときつまり、もはや湯浅はジャーナリストの位置に甘んじていて、コーチではないという、刹那のわたしの感性を、言っているのである。
いや、湯浅は表現の世界では「だれだかわからない、例えば、おばかな、増嶋みどり、とか金子達人とか、ときりむすんでいるかもしれない、それはよいが、むろん現場「では、ない」わけだ。

現場が「こうやってそのゲームのシナリオを、描く」そのシナリオが「おのれの、勝ってな、思いこみか?」そうではなくて、鬼気迫るほどの「読み」か?
そういうところを、現場の、しかし、当事者ではない、自分など、観察しているわけだ。

アラウジーニョ「いや、こいつ凄いね」です。
しかし、西野は、このすごい選手をコントロールは「していない」(だからレイソル、押さえられた)そこがアンリとベンゲルとの「あいだがら」とはちがうとわたしには、見える。

一方の早野も「名前、相川さん、知らないのだが」ブラジル選手、「コントロール」はできていないよね、それはそうだ。


だから、「たまだ」はいつも孤立しているように、わたしには「見える」べつないい方をしたら、たまだを「活かしてやろう」とは、外国人思っていないのだろう、それはよくわかる。
しかし、サッカーは、コーチが、信念として「チームワーク」を、信じなければ、「うまくいかない、スポーツであって、その点、西野も早野も、外国人を「どうやって」その、クラブなりのサッカーのなかで、チームワークという、単純ではあるが、しかし奥深い、意味のある、コンセプトのなかに、たぐりこんでいないよね、と私は思った。、

それで、この試合の前に、フォワードの守備という議題で、すこしレイソルのコーチと電話で話して、1-0でリードしているケースで、どうしたら、いちばん高いところから、いってみれば、あいての攻撃を封じて行くか、そのための行動を、こちらの選手が「わかっています」ならば、勝つ、わけで、そうでなければ、ひっくりかえされる、というようなことを、(それ自体は、だれだって知っているわけだが)話して、そのことを、実行したような試合にわたしは、見えた。

自分の座席のとなりの「おやじ」がまだ20分は、時間が残っているのに、レイソルが、逃げ切りを「意図している」のを「逃げ切れる、とおもっているのかな」ってしきりに言う。

そのくらい、逃げ切れなかった、ということが、あったのだろう、と感じられる。

でもそれは、残り時間の問題ではないだろう。
サッカーは「こういうスポーツだよね」っていえる、試合の流れにレイソルは「はいった」しかし「ガンバ」は1-2の得点結果を自分に言わせれば「たんたん」と追うだけの、残り、20分で、こんなものなの?と思った。

いや、サッカーはそんなものなのかもね?
0-1で負けている、あと、10分「どうするって」
いや、リーグ「だから」このまま0-1でも「しかたがないって」
確かにね、大人の態度か?

また来週があるぜって。
そうだね、でも人生って、そうやって、まだまだっていうときに、過ぎてしまうんだよね。

だから最後は、やはり、コーチの人生観だろうって。
たかが、ガンバ対レイソルで、そういうように考える、自分は異常かな?

上野についたら、地下鉄銀座線もう最終終って、四谷まで行った。

四谷から、歩いた。
いや幸せだよ。
頭はフル回転できた。

それが楽しい。(この項終り)