コーチの使うサッカー用語と練習化


2004年9月18日(土)

2002年のフランスはワールドカップ本大会予選で敗退したわけで、いろいろなひとがいろいろなことを言ったのだが、それで、フランスが98年に獲得した、栄光も、そのサッカーがどういうことであったのかの(コーチにしたらいちばん本質的な)議論も消えて行ったような錯覚におちいる。

そのまえ1998年に優勝したとき、フランスの「サッカー」というのがどういうメカニズムをもっているのか?解析したひとはいるのかもしれないが、なにしろ協会に無縁で、少なくともわたしは、よくわからない。
が、98年のフランスが良いテキスト(真似したいほど魅力的だが、ではなにをどうすれば真似できるのか?)ではないのかという思いは、98年からこのかた、ずっとわたしの思いの底にある。

自分自身に設問すれば良いわけで、ジダンだ、デサイだの「人材」が、手にはいるわけはないが、あれと同じチームつくれと、言われたら、どういうように練習し、その練習のなかで、どうやって、選手に、98年にできたチームの姿がゴールだとすれば、そのゴールに1歩1歩接近していけるのだろうか、というのが、おのれに問い掛ける、設問の内容である。

古い話だが、クラマーさんが73年に、自分にサッカーおしえてくれたときには、70年メキシコでブラジルが優勝したときの、解析をした、テクニカルレポートをみんなに配った。

むろんそのテクニカルレポートのボードメンバーにクラマーさんがはいっていたからである。

どんな読み物も、そうだが(小説だろうが評論だろうが新聞記事だろうが)、その内容を、読みぬく能力というものは、ひとが成長していって、アップしていくものだろう。

個人的には、昔は、「そこを読みぬけなかった」しかし今はひらたくいえば「わかる」という、そういう体験ばかりをしている。

よこみちにはいるが、昔、読んで、わかったつもりの、小説に再会していく楽しみというものが、ひとの生にあるということだろう。
昔は「ものをおもわざりき」というやつだ。

それでサッカーに戻って、今となっては、てもとにないそのテクニカルレポートをもう1度読んでみたいものである、というのは、73年のころは、若読み、の典型で、こんなレポート読んでもなにもえることないねと、おもったことだけは記憶しているからである。

2002年にクラマーさん、日本にきて、その講義きいたときに、自分の感想は多々あるが、ひとつはクラマーさんが、2002年に用いた、「2002年のワールドカップ、サッカーを語る」サッカーターム(つまりいろいろなサッカー言葉)その昔、とまったく「変わっていない」ねというものがあった。
これは、新聞やらサッカー雑誌を読んでいる限りでは、「2002年のサッカーは、なにか飛躍し、発展し、進化をとげているかのように思える」のに、なぜ、昔から、クラマーさんが使っているサッカー用語ばかりで、語られるのだろうか?ということを相川さん言いたいわけだ。

まずサッカーでなくても、どんなことでも、共通理解をえるためには、「言葉のすりあわせ」ということをしていくのが、人間である。
眼前にあるのが、例えば人間が百万年も「営み続けてきた、例えば食べる」ということを表現するのに、トリビアルな差異を言いたてれば、それでさえ、言葉のすりあわせが必要になるとはいえる。
ましてや、かなたに「古いものがあり」こなたには「新しいものが」あると、信じこんでいるとしたら、いわゆる新しいものと古いもの、を議論するとして、言葉のすりあわせが必要だと。

クラマーさん、そんなことに無頓着であった。
パスは、ワインを客のグラスに注ぐように、ていねいに「さー、どうぞ」というように、やるのだ、というようにである。
多聞、サッカーは新しくなっているのだ、と主張するひとたちには、違和感が残ったろう。
「ラインは、ラインコントロールはどうしたこうした」というようなことを言いたがるひとたちのことである。

以前に書いたかもしれないが、医学の世界がなにがすごいかといって、人間の病気(かれらは病変というようないいかたをするわけだが)について、、それを表現していく、言葉そのものは、みんなかっちりと、定義されているということである。

例えば、研究がさらにさきをめざしていく、細胞レベルでまだ未明な領域というようなことは、はあたりまえだが別だろうけれど、既知の領域では、言葉が表す、現象について、規定が厳密であるということだ。

なになにガンの第2期といえば、かくかくしかじかの、現象が顕著であって、まーそれが実は「第4期ではないのか」というようなあいまいさというものは、議論にはならないというように自分には思えた。
つまり「すりあわせ」は議論の初期に、不要のようである。

ひとつの言葉の意味にあいまいさは「ない」

ところがサッカーでは、つまりひとりのコーチが、このパスは、長いといったって、別にそのパスが30メーター以上を長いパスというとは規定されてはいないから、「今のロングパスよかったですね」といわれても「いや、あれはロングじゃないでしょ」というようなことは、いくらでも、あるということになる。

またまた蛇足だが、では、そこで、サッカーにおける、言葉の規定という、方向にまず行ってしまう、コーチみたいなものもいるわけだ。

当然の態度とも言えるし、またあまり実を結ばないだろうなという思いもある。

まず、わたしは、あまりそういうことはしない。

例えばドリブルには「直線をスピードあげていくドリブル」もあれば「例えばストッパーが、プレスかけてくる、相手のトップからボールとられたくないような(そこで読者は相川がなにを言いたいか、想起してください)まーボールのさばきかた」もある(他にもあるでしょうが)、そうやってこの場合ならドリブルとはなにかを、規定することに熱中するのだ。
彼は、なにをしたいのか?

練習のプログラムを組むときに(とくに少年向けコーチなどが)「見落とし=これを少年たちに教えてやれなかった」というようなものがあったらいけない、という職業的良心から、けんめいにドリブルというものを、「こういうドリブルもあれば、ああいうドリブルもある」というように、言葉で規定して、練習で、それを、分習的にやらせる、しかして、ありとあらゆるドリブルを教えてやりたいという欲求にかられるからであろう。

欲求はよしだが、不可能なことに「駆られている」とも言える。

このやりかたはワークしない、とわたしなんぞは思うわけだが、どうしてかといえば、言葉の規定を、厳密に「こまかく、こまかく」することは一見わるいわけではないけれど、
細かくしようと思えば、「どんどん、どんどん細かくなるので」で、「細かくなって、それを、練習化しなければいけないわけだが」練習はそこまで細かくならないですよ、ということがまず第一点、言える。
ましてや、どの練習をどこまでやるか?そういう問題もある。

その答えは、「できるまで」ということにはなるのだが、そうなるといったん、掘り下げて行った、微細なテーマを全部やる時間などとてもないと言うことも言える。

次ぎに第二点としては、かりに「いや、おれは細かくして選手にやらせて見る」ということでもいいのだが、「その分習」で修得したものを、実際の試合の流れの、場面のなかで、どうサッカーそのものという(いわば、全体)と調和させられるの?ということを「どうするの?」という問題を解決しなければならない、ということがある。

ドリブラーには「なった」しかし相手のボールをとることはできない、というように。

ただし、ひとりの選手に「細かく、細かく」技術を教えていくことは、可能である、なぜなら、ひとりの選手に技術を教えて行く場合は、「いまのはちがう」「こうやるんだ」と、やれるから、いわば練習化する必要がないわけだ。
コーチが眼で見て、おかしいとかこうしろとかは「やれる」しかしそれは多聞マントーマンであろう。20人の選手に練習の方法を与えて、それを実行する(のが、訓練である)というのが大胆に言えば、どこでもやっていることだから、それを練習だとすれば、その練習では「細かく、細かく」掘り下げるのは、選手の自習に依存ということになっている。

だから自習することのなんたるを知らなければ、時間の無駄に近い。

野球素人だが、例えばテイーバッテイングという練習がある。

中日の落合あたりは、だって実際には、あんなボールなんかこないんだから、あんな練習やらねーよ(と、確か)言っていたのでだが、まーそういうことが例であろう。

ボールのとらえかた、(タイミング)その際の、身体のふるまい、眼のつけかた、そういった要素を多聞、やさしいボールで「覚えさせる」と言うようなことが目的なのだろう。

そのテイーバッテイングとは、なんだ?と厳密に言葉で、野球人が、規定しているのかそれはわからないが、かりに、例えば、どこかの野球コーチが、選手の上半身のつかいかたを、覚えさせたいからといって、選手をひざだちにさせて、「それを」「やらせると」する。
そういうことは、あるのかもしれない。

また有効なのかもしれない、
しかし、それを全員にやらせて、かつ何時間もさせて、一体なにをどうしたいのか?ということである。
自分ならさっさと、生きたボールをうたせにいくであろう。

練習化でなく、その次のステップをある野球コーチが知っていて、膝立ちでやらせて「はい次ぎは、こういうことをやってみよう」「まえの練習=膝立ち、を活かして」ねということならわかる。
つまり、鍵は「ひとつの練習」と「次の練習が」リンクしているということなのだろうと思える。ドリブルを精緻にこういうドリブル、ああいうドリブルと規定して、それを分習したところで、無意味だろう。

ましてや、その練習に、「なになにテイー」と名前をつけることに熱中することが大事なわけではない。
名前をつけたっていいが、その名前がついたら便利になるということは、その名前が全体の、練習による、向上のどこかに、しっかり位置するということが本質であって、そうでなければ、名前つけて、なにか意味あるのということだ。

落合がそう言ったかどうかはべつに、最後は、150キロの動くボールか、投手がその逆をついて投げる変化球を「読みながら、感じながら」打つことが野球における、打撃の、いわば向上でしょうから、多聞、最後は、生きたボールを打つというところに行くしかなくて、そこへ行ってまたやはり例えば、タイミングのとりかたわるいな、とか言う話しになって、また「もどっていくのではないか」

そしてまた向上したイチローをとりあげるなら、かれは、確かに、自分の打撃技術をふりかえるとすれば、多聞、細かく、細かく、いけばいって、その表現も微細なものになるにきまっている、しかしだからといって、その向上までのステップを、他人をも、またイチローのレベルにひきあげるための、練習というものにはできないということだろう。

そういうことを押さえた上で、わたしは、選手に伝えるサッカー言葉(グラウンド用語)とコーチに伝えるサッカー言葉、一応わけているつもりではある。

わけたうえで、そのどちらも、「要は、相手の頭に、しみこみやすい、相手のこころに、おちてそのまま棲みつく」ということをめざしているので、同じことを、ころころかえて表現する。

そのかわり、ころころ変えて言っても、これと、あれ、言っていること同じだと、また、いっぱい言っても、それを「一言で言えば」こういうことだというまとめかたをする。

それと、第二点の分習をいかに、サッカーという、総合的なものにしていくか、という方法論はまた別な機会に説明するが、コーチが使う、サッカー言葉ということで、クラマーさんまったく変わっていない、ということに戻れば、2002年の講義中、ただの1度も、フラットなんて言葉は、でてこなかった、あるいはあたりまえだがフラットの「あげさげ」なんて、ことも言及はなかった。

それを、古いと言えるか?

またただの1度もトルシェという名前をいわなかった。

これはまた次元がちがって、民族と民族の「蹉跌」のあらわれだと考えるが、
ドイツ人とフランス人ということなわけだ。

つまり、ここまで書けば、客観の姿かたちを「した」テクニカルレポートといえど、「それは、だれそれの(サッカーというスポーツ、ゲームの)見方なのだ」と実際に、クラマーさんが73年当時に言った、わけで、まことにそのとおりである、という結論になる。
02年でも、フラット「なんてことは」かれの主観では意味を成さないことであった。フランス人はしかし「ちがった」というように。

だからやはり医学のようにはいかないのかもしれない。

それに例えば相撲の世界には、高砂部屋、スモーテキストなんてものはなさそうだし。
またそういうものがないからといって、他の相撲べやが困っているというようなはなしは聞かない。

ここまできて、やっと1998年のフランス代表の話しが始まるわけだが、あのフランスの(そんな表現はどうでもいいのだが)シャンパンサッカーといわれた、サッカーを「どうやったら」選手に教えられるだろうか?それが今というかずっと、わたしのこころのなかに巣食っている訳である。

で、これもまたどうでもよいのだが、エメール・ジャヶ(当時の監督)は1974年の選手クライフ、監督ミヘルスのオランダをずっとけんきゅうしていたのではないだろうか?これはまったくのあてずっぽうですが

74年ならクライフとか、98年の、ジダンだ、とかいう偉大な個性がいたからこそ、できたサッカー「でも」あるのだが、では、ミヘルスにしてもジャヶにしても、「ただ素材がいて、それに」「まかせて」チームの練習を策定していったとはわたしには思えないわけである。

サッカーというものがジャパンローカルな高校サッカーであれ、 過酷な競争にあるヨーロッパサッカーであれ、毎週、毎週試合をくりかえしていると、腑に落ちるいくつかのことがある、わたしが何を言いたいかといえば、他のスポーツでもあるのでしょうが、サッカーにはサッカーの「ゲームのパターン」とでもいえるものがあって、それらは、そう多いパターンということではない。

例えば、北朝鮮対中国の、アジアユースの決勝」見ていてまず思ったのは、中国のチーム構成の極端さ、要は、身長のある選手を選んだ、そして最後の最後でそれは生きたようだが、試合そのものは、スピードがあってパスのうまい北朝鮮がどちらかといえば押していた、しかしその北朝鮮も、最後のシュートは迫力をかいた、というか中国のキーパーに負けていた。

これだけの言い方のなかにわたしのいう、サッカーというゲームがもつパターンのいくつかが、あると思える。それはスタイル(サッカーのやりかた)だけでは、表現できないたぐいのことであって、とくに自分が言いたい事は、アップダウンにパターンが表れるということなのである。
中国の代表のほうは対日本のときバックパスをくりかえした。
すると、その次のパスの出所は、おそらく、日本からしたら「読み読みで」かんたんであったと思える。そのスタイルでは、日本のラインをあげるスタイル、あげてとって、そのあと、あまりスタイルを制約しないサッカーに中国はダウンせざるを得ないというように。つまり、どこかで、中国の選手のひとりがいくら「くそがんばりしても」中国がアップしてあまり効果的な攻撃をしかけえず、ダウンせざるを得ない、そういうパターンが見えたということを言っている。

ユースの中国は、北朝鮮の「はやい、パス」にどちらかといえばダウンしていった、どこで北朝鮮のアップをとめたかといえば、キーパーの好守であった。しかし長い間サッカーを見てきたものからしたら、北朝鮮「の」アップして、そして(キーパーに防がれて)ダウンさせられるそのパターンあまりよろしくないといえる、中国のアップのしかたはあまり巧緻を感じさせないのだが、コーナーでの長身選手の威力はすごいね、北朝鮮守り切れるかしら、と思っていたら案の定、1-0はコーナーからで、そこで眠ってしまったが、このパターンもどこかで既知のものではある。

選手は「来り」また「去る」のだが、パターンはどこかで、サッカーそのものではないのに、サッカーを支配しているようなところがある。
判断というのは文字通りでは、どこにポジションをとるとかどこにパスをだすかとかいうことであるのだが、相手のアップしてくるそのスタイルが効率的であると、こちらが、ダウンしっぱなし、アップできないという、パターンに落ち込むというような場合、どこへパスを出すというより、むしろ相手をダウンさせなければいけないという、判断と言えば判断だが、言って見ればゲームの流れを演出する『判断』が先行するというようなことをずっと選手に教えている。

で、なにをいいたいかといえば、ミヘルスも、ジャヶも、攻撃サッカーがアップということでは圧倒的であっても、結果、負けるという、またこれも旧知の、あるパターンに我慢がならないのではないか、とこれまた勝ってな、想像だが、思う。

市原のオシム監督が言うことが好きなのだが、「サッカーは攻撃するチームが負ける」というスポーツなのだと、ここまで言い切る、要は、サッカーではカウンターだぜ、という意味だろう。
そうなのかもしれない、しかし、「そうだね」とは、まだ言わない、言えないと自分はふんばっているわけだが、勝ってな、想像で、ミヘルスもジャヶも、同じじゃないのと思う。
(この項終り)