Dボーイズ的アプローチ

2003年9月10日(水)

ブラック・ホーク・ダウンという本を買ってきて、読み進めている。
映画にもなった。

ブラック・ホークというのはアメリカの戦闘ヘリで、1993年アフリカ、ソマリアのモガデシオで実際にあった、アメリカ特殊部隊が市街地に空挺降下して、国連活動に敵対するアイデイド派幹部の拉致を目的とする作戦で、1時間で終わるはずのオペレーションであった。

ところが2機の、ブラック・ホークがロケット砲をあびて、モガデシオの市街地に、墜落して、部隊が孤立、ソマリアの民衆なのか民兵なのか市街地での壮絶な銃撃戦が始まってしまって、というそういう状況を描いた内容である。

いろいろと「知らない」ことがでてきて、興味深い。

まず「レインジャー」というアメリカ陸軍の兵隊のことが出てくる。

レインジャー部隊が先陣を切る、というモットーがあるようにアメリカ陸軍のなかでは常に前線へ「行く」兵隊で、これになるには、まずアメリカ陸軍に志願する、次に、空挺部隊に志願して、最後に、このレインジャーに志願というそういうプロセスになっているとのこと。
「たいがいの同世代の若者とはくらべものにならないほど、人間が鍛えられている」とある。
だが、かれらレインジャーの大多数のものが、できるものならそこに甘んじることなく、陸軍特殊部隊に入りたいと思っている、そのための資格は「最高のもの」で、選抜試験を受けて合格するのは10%、この特殊部隊がデルタフォースですなわちDボーイズと呼ばれる。

そしてそのDボーイズから見たら、レインジャーなどは子供みたいな役立たずであるというらしい。

このDボーイズのことが初めて知ることばかりだ。例えば彼らは抗弾ベストは、つけるが、ヘルメットは「ホッケー用ヘルメット(プラスチック)」なのだとか、それは狭い場所へすばやくはいってすばやく出ることが要求されているので、弾丸や破片を防ぐということよりもとにかく頭をぶつけないことが重要なのだそうだ。
また民間人にばけて作戦に参加したりするので、まるでビジネスマンのような髪型をしていたり、ひげをはやしていたりもするそうだ。

あるいはDボーイズは、戦闘になると「指揮系統にしたがって行動するのではなく」「自分の頭で考え、自主的に行動するよう訓練されている」だからDボーイズはヘルメットの内側に無線のヘッドセットがありラップアラウンド式のマイクで、互いに、連絡をとりながら、行動していく、対して、レインジャーは昔ながらの軍隊であるから、指揮をうけ、規律のもとに動くそういう兵隊である。レインジャーは士官や班長の大声の命令で動く、古典的兵士だから、結束が大事と言うのは歴史のなかで証明されてきたことだと、考えられている。なによりも集団の規律が最優先事項であり、命令の遵守がすべてである。

(このブラックホークダウンの中でも、墜落したブラックホークの乗員や兵士を救助すべく車両部隊がモガデシオ市街に、ほんの数分しか離れてていないアメリカ軍基地から出動する、そして上空にはアメリカのヘリコプターしかいない、つまりアメリカ軍は制空権を握っている、どこにヘリコプターが墜落しているか、そのヘリからリアルタイムでビデオ映像が基地のなかの司令管に流されている、車両部隊はそのヘリと無線で連絡とりながら、墜落地点へ誘導されたいと交信していく、ところが、2機のブラックホークが墜落したことから、どちらの墜落地点へ、どの車両部隊が赴くのか、誤認が生じて、地上の車両部隊からすれば、「この方角へ行くのではないか」といういわば判断があるのだが、「命令で」間違ったコーナーをまわり、まわりで、ついに墜落地点に届かないということがおきてしまう、古典的な軍隊、兵士では、上官の命令は絶対ということがあらためて、伝わってくる)

Dボーイズのなかにメイスことジョン・メイスジョナスというデルタ隊員がいる、記述ではこうある、メイスのエンジンは高速ギアにはいったままだ。腕立て伏せ、上体起こし(シットアップ)腿あげ、懸垂はもちろん、自分で考案したやりかたでさらに肉体を酷使する。

あまりにトレーニングの量が多いので、レインジャーたちもメイスを突然変異の人種とみなしている唯々。

「戦争の霧」なる言い方があるそうだ。

それはいかに周到な計画でも撃ち合いが始まったとたんに瓦解し混乱状態に陥ることを現す言い方だそうである。
こういうのが、サッカーでも現実なのだと思っている。 いくら準備をしても、また「こちらに押し寄せる、敵の圧やら方法を読みきっても」ゲームになれば、霧のなかにいるかのように、どこへ行けば、なにをやれば、勝つのか、五里霧中というわけだ。

サッカーは生き物である、静態(のまま)解剖をできない、生きているのだから、この日と次の日の「ありようがちがう」学問でもない科学でもない、そういう対象ではない。

だが現代(いま)を生きる人間として、自分も充分、現代病患者だから、試合前(都立国分寺)、相手を分析して何事かを「わかったつもりになろう」とする。
本当はそういうことではなく、戦争の霧であるのだが。

相手を「どう分析」するのか?

そこにもいろいろな方法があってよかろう、あるものは、敵の「ライン」のあげかた、さげかた、横への移動などに注目する。またあるものは、敵の誰それの攻撃の際の特色のある動き方を仔細にしらべあげたりする。

どういう切り口、どういう分析、なんでもよいが、そのどれもが、ピンポイント化していくのが、今風ではないかと思っている。

どうせ分析するのなら、「だいたい」こうではないかとか、大雑把なパターンではどうだということではなく、ひとりの、人間が行動できる具体的なサイズとか、支配できるエリアとかに先細って、状況が分析されるということだ。

今の世の中では、「この町に爆弾落せば」「誰それ」を殺せる、というのではなく、この建物に、ピンポイント爆撃だという、どこにいけば、うちの製品を買ってくれる顧客がいるか?ピンポイントで、顧客をさがしてこい、知識としてもっていろ、と言われる、肝臓の腫瘍を電磁波で焼くとしたら癌細胞にピンポイントであてなければならない等々。

行動にむすびつけられない「分析」をいくらしてもなんの意味もない。

行動にむすびつけられるには雑多な情報というより大きすぎる範囲のことを言っている情報を、ひとりの選手が「できる具体的な行動にまで」絞りこんで「から」与えるしかない。、「こうしろ」と言いきれる、ところへまとめて、それがひとりにとって、行動可能かとまた問い直さなければならない。

ブラックホークダウンに限らず、戦争ものの本を読むのは、アメリカ軍の場合「行動」を起こす以前の、計画と準備のたてかたがけっして抽象に流れず、力の行使を組織していくその際の目のつけかた、神経の配り方、それが参考になるからである。まず戦略があって、その先の思考のはてに、当然ひとりひとりの兵士の行動の規定というものが「でてくる」

むろん戦争あるいは軍事行動と、サッカーのゲームはちがう、ただこのブラックホークダウンでも、目的とするオペレーションは昼間1時間ほどで成功のうちに終わるという「事前の判断」のもと、レインジャーであれ、Dボーイズであれ、ほとんどの兵隊が暗視スコープを基地に残して、(装備を軽くするため)出撃してしまい、結果モガデシオの街区にソマリア人にとりかこまれて、明け方まで包囲されるということになったりする。

ゲームも戦闘も机上では「これで勝てる」というところに考えを煮詰めてはいくのだが、実際には、これで勝てないというかこれで勝てるか?という霧中の状況になってしまうわけだ。

手元に、82回、選手権東京都大会組み合わせ表がある。

いつも練習試合などで、なじみのあるチームとか、一応強豪といわれているチームなどの戦力を考えて紙の上で勝手にシミュレーションしてみたところで、ものの1秒も脳はすすまない、ところが実際の試合を「見れば」どちらが「なぜに」勝ったかという理屈を、「言え」と言われれば、いくらでもすらすら言える。

だから勝負なので、おもしろいわけだ。

それ以外に、サッカーはしょせんは、こちらが相手に優越すれば勝てるはずだから、「準備」ではそれを目指すわけだが、優越しているはずという、その判定をどうするのだ、それもこちらの、ひとりひとり対相手のひとりひとりという視点で、まず見たいと思うわけだが、「こちら」はともかく「相手のひとりひとり」を観察しきれない。

仮に相手の試合(Aチーム)を見る機会があっても、こちらの選手と相手のマッチアップを対照しながら見るわけだがこの対象のAと今やっているBのチームのこともわからないわけだから、Aの選手が仮にBのある選手に押さえられている、として、Aが弱いのか?Bが強いのか、そこがなかなか判定しにくい。

昔はそれで終わりであったが、今は相手のライン守備の傾向、プレスの傾向をまたなんとかパターン化して、選手に伝えねばならぬ(というようにじぶんは考えるから)厚木にきていたVERDYの小林に、アルデイレスは試合前、フラットをどう崩せというのかい?と聞いて見たら、「いやそういうことはなにもいいません」ということだった。
高校生にわざと、こちらは採用しないフラット4をひかせて、それを破る、というような練習をさせる。

フラット4のほうも、ボールをもったら攻撃してよいということになっているから、見ていれば、フラット4のほうが、攻撃して、それが失敗した、場合つまりフラット4が組織されていない、そういう瞬間は、フラットでは「ないほうの」攻撃も生き生きしている、あたりまえのことで、もし自分がフラット4の狂信者になったら、多分脳作業のはてに、フラット4は絶対崩すな、と選手にいうだろうと思える。

つまりフラット4を看板にしているが、フラット4でなくなっている「瞬間」というものは、攻撃を受けやすい。

ところが練習では常に、フラットへ攻撃するほうから開始というローカルルールにしてある、つまり「がちがち」にフラット4に迎撃側よ「かまえよ」、練習だから、それをいかに崩すかということにしてある。

集中力のない高校生にゲーム中、ラインを形成することを固守せよ、というところにまず無理があるという感じだ、ここをフラット派の連中と話してみたいところだ。むろん論争に勝ちたいではなく、「ここのポイントをフラット派は」「どう考えるのか?」知りたいだけである。

次に、ラインの間隔について議論してみたい気がする。横の幅のことである。
3バックではタッチ←→タッチ守れない「から」4バックだというひとがいるが、これは幼稚な考えだろう、3バックでは、サイドのスペースを守れないから、基本的にはサイドはウイングハーフの責任エリアにしておくのがほとんどで、結局英語でいうほうがぴんとくるが、In Defenseでは5バックであろう。ウイングハーフの「攻撃参加」の方針にコーチごとの1家言が「それぞれことなるところである」「うちはまずはウイングハーフあがらせませんよ、と偉そうにいうのは良いが」それは「3-5-2」とは言わないだろう、5-3-2じゃないのだ。

一方4バックは、4バック側がこちらに攻めこんでいるとき、4人で、構成されるライン全体の幅を利用して、一応タッチ←→タッチをカバーしているかのような感じを相手に与えるような考えだと、韓国でそう思った。

つまり「間に合う」ということが自分などはサッカーの守備で大事なキーワードだと思っている口だが、4バックが、ハーフライン上にいたりするとき、なかなか「こちらが、どこへ最初の一撃のパスを飛ばしても、相手の守備はどこでも間に合うね、」という印象を与える。

これで更に守備的になってハーフが横一線の4-4-2だと、要するに、こちらが使いたいエリアの「どこにも」相手が「いるじゃねーか」というそういう印象になる。
だからこちらが、相手の攻撃をかわして、こちらがボールをとった、その直後に「第1撃のパス」が無邪気なら、どこへパス出ししても、とられそうな「陣形=かまえ」と言えそうだ。かといってこちらのラインでまわしてもいわゆるフォアチェックを平行して用いるから、こちらの低いところで、ボールロストしたりして、いつもいうバカぽっく「やられる」

けれどそこさえわかれば、ではどこへパスの第1撃をおくるか、そこが解だろうと思える。

9月11日、日本学園の選手にも、FC杉並の選手にも、高校3年ぐらいになったら、陣形をその静止状態でよいからゲーム中に観察できるようにしろといった。
ボールが一つ動けば、相手の陣の組織も「むろん動く」この動き方を観察というか、わかれば、どこが穴になるのか、わかるが、そのこと以前に、静止している陣形のイメージを読めといった。

ラインのありかたと、その前のハーフのありかたのことを言っているだけだ。
そのうえで、今も、サッカーというのはいわゆるトップ下を「とる」、とりにいくというのが、正道じゃないのかといった。そのうえでの散らしである。昔からかわらないはずである、教科書にあたりにいくのではなく、わからなくなったら古典に行けだと思った。
(この項終わり)