オシム監督の教え

2006年9月7日(木)


トルシェは、ワールドカップでも通用するような戦術を、日本人に教えた。ただ2002年のワールドカップなどを見たら、日本と外国のサッカーには、なにか、個人的な、能力で差があると見える、ジーコを代表監督にする理由は、トルシェでは、教えてくれなかった、個人技をジーコに、教えてもらう「ためだ」

これは川渕さんが、ジーコに監督をまかせたときに、その根拠を、説明したときのコメントの、相川のうろおぼえ。

その、発想が、有効かどうか、ジーコが、川渕さんの意図のとおりに機能するのかどうか?人物的に、くせがありすぎた、フランス人トルシェよりは、世界のジーコで、抑制もきく人物であるから、あつかいやすいだろう、とかスポンサー筋への、挨拶にも出向くだろうとか、なんやかんやの、インサイド情報などは全部、どうでもよいとしたら、川渕さんの発想は、一サッカー人が「なんとかして、日本のサッカーのレベルをあげたい」のだという、そういう発想なのだと、素直に読めばよい。

いやほかにもいろいろ方法の可能性はあろう、だが、とにかくコーチジーコではなくて、選手いや、元選手ジーコの戦術の、ひきだしではなくて、個人技の「多いはずの、ひきだし」にかけたわけだろうから。

しかし、その結果は?いかがであったろうか?

例により、その反省がなされたという気配がない。

誤解されたくないのだが、2006年ドイツワールドカップの内容についての反省ではなくてね。
ジーコの現役のころの、目もくらむような、個人技が、日本人に伝わったの?というそういう視点で、である。
コーチ、ジーコの危うさなど、つとに、表明してはいた。だれも聞かなかったけれどね。

そういうことは、できないことだろうとは思うが、川渕さんがジーコに期待をよせたとしたなら、代表監督などではなくて、4年間休暇もあたえなくてはいけなかったろうから、1年10ヶ月、40ヶ月を47都道府県を1月、静岡、2月熊本、というように、巡回コーチにさせて、こき使ったほうが、良かったのに決まっている。
むろんジーコは、スターであるから、そういうオファーは受けない。

クラマーさんは、コーチであって、かつ義のひとであるから、似たようなことを、してくれた。

代表を強化したら、それは頂であるから、富士の裾野つまり、次世代の選手のひろがりを、発展させる、こういう発想は、だれでも気がつく。
換言すれば、代表強化は、一点突破のばくちである。
ワールドカップでこけたら、案の定、なにか日本サッカーの全体が、こけてしまったかのような、雰囲気になってしまう。それではならじでしょう。

だから代表強化と、若い世代の育成の二つの企画が平行していさえすれば、古い言い方をわざとするのだが「国民は、耐えて、この国難に」これは、うろ覚えだが、太平洋戦争中の、文筆家の」言いまわしをしてみただけ。

ジーコジャパンはこけた。

この反省はすでにいろいろなひとがしてくれている。
なぜ、素人ジーコを代表監督にしたのか?政治の言葉で言えば、任命権者の責任とかいう話、
それを追求するもよしだ。

ただ、裾野において、「なにが、どうなったのか」というそういう「反省はいらないのか?」裾野において、「はすべてが、計量しがたい、現実で進んでいるはずでもあろう」だからジーコ効果、など、検証することもできはしないだろう。
だから、裾野においては、「ドイツで負けたから、だからどうした」っていう、たくましさが、あってほしいものである。

さて、そこに「オシム氏」がやってきた。

オシム氏本人が、わたしのいう「裾野」と「代表」の関係については、十分認識されていると思える。

そういう認識は、現場にいるコーチは、毎日感じるから。

例えば、高校のコーチは、中学でもう少し「こういうことを、教えてくれたらよいのにね」と愚痴る。
Jの指導者は、大学でも、ユースでも、もっとこういう選手を、育ててくれたらよいのにね
と、不満をくずぶらせている。

裾野の、どこらへんかは別に、自分がチームをもっていれば、よほどのバカでない限り、自分のチームに「やってくる前の、選手の、育った環境に関心はもつ」

たぶん、オシム氏はJEFに、はいりたいといってくる、若者をとおして、ジャパン裾野の「脆弱さ」「物足りなさ」を、感じているはずである。

それが「なぜか?」はおそらくは、知っているというか、分析はしているだろう、ただ言わないだけだろう。
しかし、そこに=裾野に、端を発する問題に、自分が、悩んでいるということは自覚している。

オシム氏は頭脳明晰なひとらしいから、彼と、対話するひとも、オシム氏の、頭脳の中の、サッカーの「構造」とでもいうものを、よく、自覚されたほうがよろしい。

オシム氏が「代表」のことを言いたいのか「裾野」の話をしたいのか、耳の穴かっぽじって、認別したらいいのだ。

オシム氏がこういった「今の代表では、攻撃も、守備もできる、ハーフがいません」これは、トテモ重大な、発言ではないだろうか?

例により、とんちんかんな、メデイアは、この発言を表層てきなものとしか、考えない、だがそれはいい、メデイアの限界だから、ただオシム氏が名うてのプロだと前提して、そのプロが、彼の眼力からして、こういう発言をした。
代表に「いない」イコール、Jリーグに「いない」と言っているというように、自分には思える。

Jのコーチは、「そうではない」と思うなら「反論すべきである」

だって、オシム氏の言い分に、たてば、日本の観客は、「はんぱな」「ハーフのプレイをJで見ている」ことになる。
Jのコーチは要は、詐欺師みたいなものだといわれているに等しいではないのだろうか?

サウジに負けたとき、「子供のプレイだ」といわれた。

それがサッカー的に、何をさすのか、メデイアは例により、つっこめない。
想像するに、「縦にはやくいきすぎて」「相手の瞬間瞬間の陣形を読めない」質をさすのではないか?高校の指導者、毎日、それを、「見てます」だから、別にびっくりはしない。
日本人のサッカーの悪しきDNA。

ジーコに、ポゼッションだと言われると、「安心して、横、うしろ、」と確かにキープはする。
どうしたら「崩すか?」まったく欠落してしまうかのように見えた。
「しゅんすけ」やってくれるだろう「なかた」やってくれるだろう、なぜって、かれらはヨーロッパでやっているプロなのだから、ジーコはそう思ったのか?
オシム氏から見たら、彼らは「ボールを待っている」だけの、存在にすぎない。ストイコビッチ、レベルならば、言い方おかしいが「ボールを待っていてもよいのかもしれない」
しかし、そうでないのだから「走れ」というのは、まともである。

リッピのイタリアを見ると、例えば、カモラネ-ジ、基本的には、サイドに開いているが、なにか感じれば、インサイドにくる、そこまでは、OKだが彼がインサイドにはいれば「だれかが、ワイドをとりにいくのは、サッカーの常識。

「かじ」は一見頭がよさそうに見える顔立ちなのだが、ただ、タッチラインぞいにあがるだけのように見える、だから、たぶん、オシム氏からしたら、「創造力のない、やつ」なのだ。

オシム氏が、どうしろといったかはわからない、わからないが、「はやく、はやく」とは言っているのだろう、むろん、はやく、だが、アイデアをいれてなことは想像できる。

しかし、そういわれたら、「そのとおりになってしまう」ロボットサッカーと自分は言うのだが、Followerが骨の髄、まで染み付いているのが、日本人で、は、トルシェにも、ジーコにもバカにされるわけで、それはオシム氏がチームを召集しても、民族性だから一朝一夕にはかわるはずもない。

サウジで実際にどういうようにやるのかはわからないが、かわぐちらキーパーのパス能力を高めるために、センターサークル内に、キーパーおいて、ゴールライン上のほかのキーパーとのあいだに、パスが通ったら、どうこうという練習をやらせた、しかし、サウジ戦になったら「よしかつ」ぼこぼこ蹴るだけで、オシム氏激怒??とある。

よしかつレベルの選手であっても、「練習は、練習」「試合は試合」という分離があたりまえなのだな、ということがわかる。

いかに、練習が、実戦を想定していない「れんしゅう」、そういう履歴をいってみれば時間を費消して、育ってきた、選手が多いかということになる。

そういう選手にしたら「れんしゅう」はただ時間の経過に、従順であればよいという、ことにすぎなかったしオシム氏の処方も、「まーれんしゅうでは、とりくんでいるような態度でいよう」としかし「試合になったら、ただ、昨日まで、知っていることを、やればいいんだ」と、そういうことである。

オシム氏の言うところを「畏れ慄いて」神託であるかのように、誤解している、選手が多いのではないか?なにしろ、JEFで、あの「ちぇ・よんす」を、たたきだした、コーチである。理由は走れないから。走らないから。

だが、サッカーはサッカーだから、オシムの言葉で「言い換えられている」ところに、惑わされていたら、まるで、柳田民話の「山に住む、異人」が説く世界のように、なってしまう、本人は、そうではない、そうではない、と否定しているが、オシム氏の言うサッカーは、要はこういうことだろう。

○ 経験でいえば、守りの「組織」を、崩さないほうが、サッカーでは失点しない。
○ しかし、それでは、攻撃は、なかなかうまくいかない、だから、守っているポジションから、「出て行く」ことになる、どこへ出て行くか?それを教えられるが、サインをもとに、試合で、実行するわけにはいかない。いつ、どのように、やるかそれは、選手の判断だろう
○ 「出て行くために」、はしらなくてはならない、また同時に「自分が留守にする」ところを、味方が「カバーするために」その味方はまた走らなければならない、あるいは、「自分が、自分の留守にしたところに、もどるためにも」走らなければならない、だからオシム氏は、「走れ」というのだと思っている、サントスはそういうことが、わかっていない、走る、味方のことをまったく、見ない、「で、えらそうに、クロスを蹴り上げている」早晩、サントスのいる場所は、なくなるだろう。
○ 自分の得手は、例えばパスである。自分が「パスをだし」「ストライカーが決める」それがサッカーでしょ、といまの日本人のこどもたちは思いすぎる、勝負だから、「それが、通じなかったら」「じゃーどうするの?」オシム氏はすくなくとも、彼なりの「ソリューション」を、もちこんで、」現れた。

よいことではないだろうか
(この項終わり)