正月選手権にむけて命削る時期

2003年9月07日(日)

9月になって、夏になったかのような暑さのぶりかえしがあったが、今朝は自転車に乗って駐車場へ行く道すがら、半そでのシャツでは肌寒かった。
このあいだ、正月だったら、もう正月選手権にむけて命削るという時期になってしまったと、まったく時間のたつのも早過ぎる。

10月05日に、日本学園は対都立国分寺、そこをぬければ、次が暁星、それで、ベスト8でリーグというくじ運であった。
この暁星戦の会場は、国分寺ということだから、世間様の予想では、国分寺が日学に勝って、2回戦国分寺と暁星で、まーやってください、ということであろう。
「ふーん」ってなものだが。
準備を進めるしかないことではある。

日曜日はAは練習。
Aは1軍、2軍だから、練習のあと、3軍対桜美林のゲームをやった。
そのあとさらに4軍対桜美林、5軍対大原高等学院、6軍対大原(30分1本)もやったから朝1000から夕方6時までグラウンドにいたことになる。

ほんのつかのまなのだが、例えば桜美林はもう都大会には出られない「から」新チームである、こちらはそれに対して、来季の主力は練習にでているわけだから、もう一つ下のチームを出す、だして幾点かわからないが大量点で勝って、最後のはちゃめちゃ6軍あたりで2-2の、ひきわけ、という内容で、「ここに」サッカーをやる選手達を「集めている」というその、雰囲気がたちのぼりつつあるということを幸せに感じるのである。まー、これは普通の人にはわからない感情だろう。

それにしても桜美林「この時期でラインのあげさげ」からはいってきているのだが「他人事ながら、どうするんだろう」

おそらくは、国分寺は4フラット、暁星は3もやれば4もやるというように記憶しているので、今朝の練習では、一方のチームに韓国晋州高校のフラット4を真似させて、他方がフラット崩しの練習をさせてみた。

日学はフラットの外観を保っているだけで、ボールが縦にはいればチャレンジ、チャレンジの古典守備だからその日ごろの癖があって、「さーフラットやれ」とむろん説明はしてやるが、いざグラウンドではラインをくずして、チャレンジに行くという「健全さ」がある、それでも「フラットをやらせて感じるのは」高校生が、これをやれば、ほんとうに不精ものの「サッカー守備」になるねという感想である。
なにしろ、「あたらなくても」とれる。

他方、誤解されたくないのだが、日本学園では、選手にこういう説明もする、
02年のワールドカップではブラジルは伝統的な4-4-2を捨ててフェリペが3-5-2をもちこんだ、その前までなぜかたくなに、4-4-2でやれたか?簡単だろう、システムに関係なく、ブラジルは常に、立ち上がり「から」攻撃でゲームを支配できたからである。

ここに高校生でも学ぶべき教訓あるいはサッカーのセオリーがあるではないか。
つまり最初に相手がいかなる、考え方で「そうするかは別に」攻撃をしかけてきて、こちらも攻撃しかえしたいのだが、とにかく押されたら、3-5-2を維持はできないのだと、だからこちらの守備は水でよいと、相手がバケツなら、こちらもバケツになり、相手がヤカンならこちらもヤカンだろうと、それでとにかく失点をふせがなければならぬだろう、だからその時間帯のこちらのシステムを見れば、5-3-2であったり、5-4-1であったり、それでよいではないかと。

練習の主要なテーマを攻撃において、その実が次第に結びはじめると、こちらの攻撃がゲームを支配して、こちらは守りの時間が少なくなる、ということを追求してそれが選手に浸透していく、すると相手はカウンターにたよるしかなくなる「ので」守備にはカウンターに強い選手を置きにいく、あるいはまだ攻撃が実を結ばない発展途上では「カウンターをくらわない攻撃」というようなことをやかましく言う。

そう言うようなことも含めて、攻撃の習得に時間を割くのが、サッカーが盛んに、ということは、子供達がサッカーを喜んでやることの鍵ではないかと思うので、桜美林のような取り組みかたは、「ちがうだろう」と余計なお世話ながら思うし、そう言う批判を言葉でしてもしかたがないから、大量点をあげて相手のベンチに煮え湯を呑ませてやるわけだ。

朝日新聞を蕎麦やで読んでいたら、自分の後輩の大住が偉そうなことを書いていた。
言いたいことは、ジーコのサッカーではだめだということらしい。
言葉をもてあそんで、ジーコは「個の発想」のサッカーだが、日本人ではそれはだめで、集団のなかの個だとかわけのわからんことを言っている。こんなことを書く閑があったら、大住は、トルシェをかついだ自己批判をしたらよい。

こんな言葉はグラウンドの上では使わない、使えない、あるいはもっと根源的に、個の発想のサッカーとか、集団のなかで個をだとかそういう発想そのものが、サッカーを語る鍵ではない。
何が「見えているか」何を「見ていなければならないのか」
人間の身体はどういう「ふるまい」をすれば「はやく」安全に動くのか
逆をとる、ということにはいろいろなレベルがあるが、どのレベルであれ、どうしたら逆をとれるのだろうか
間に合うということは、どういうことか

例えば、こういう語彙やら文脈のなかで、サッカーは語られるはずのものである。そうしたら語るがイコール、教えるにもなるし、またプレイするにもなるのだ。

9月「から」10月にかけて、相川さんの話すことが、どこらへんをめぐって、さまよい、それから解をみつけだすか、対国分寺、できれば暁星をぬけて、Bリーグ2位で、帝京と準決勝であたりたいもんだが、途中で自爆するか大願成就となりますか、おもしろい季節にはなってきた。
(この項終わり)