「勝てる」コーチ


2004年9月06日(月)

奇特なひとがいて、シャープの液晶テレビくれた。

オリンピックの試合も見ていないし、女子サッカーも見ていないから論評もないが、このあいだ、赤坂の街、雷雨の暗幕ものすごく、明日はどう考えても、練習も試合もないな、と判断して日本対北朝鮮のアジアユースの試合見ていた。
(実際には、翌日試合があった)

布、どうしようもないね。

寝てしまった。

船橋市で、体育課がある高校つくって、そこでサッカーやらせて、習志野が千葉サッカーの「看板であった」時代に、習志野倒して、市船で全国優勝した実績があるから、こそ「今の」位置にいるというのはわかりやすく、ある意味で民主的でもある。

だが、国家を代表するチームが「これかい?」と観じた(誤植にあらず)、

逆に、北朝鮮「すごいね」と思えた。

だって、巷間伝えられる、北朝鮮の社会状況、サッカーなんかやっていられそうもないじゃないの。

それなのに、この「しっかりとした」サッカーである。

どう考えても、「そこに」国家の指導とか保護があるのかもしれないけれど、「足を地につけた、サッカー指導者がいて」「サッカーをやっている」というように見えるからである。

北朝鮮でサッカーをやっている、子供達には、プロせんしゅになるという動機もないだろう、そういう目に見える目標はないだろう、そのかわりに、なにか一国共産党的な動機はあるのかも知れない

そういうことはわからないが、どちらにせよ、グラウンドがあって、ボールがあって、選手がいれば、ただしい道というのが自然に、見えてくるのがこの世のなかにおける、ひとの頭の知恵だろうというように、思っている。
で、そういうふうなことが頭によぎる。

北朝鮮の指導者は知恵ものである。
その知恵を、共通な発想のもと囲ってしまう、というのが官許のサッカーになるのであろうか?
知恵がコーチにあるならば、結果が最悪ということにならない、はずで、サッカーは誰それコーチのサッカー、誰某の首唱するサッカーということになっていくだけのことであって、百花繚乱で悪いわけがない。

協会はその上澄みを選んで、これが他の単独チームの見本よ、というチームを提示するというのが理想だが、実際は、単独のチームのコーチも素直ではない、から「ふーん」ということもあろう、しかし知恵があるなら「活かせるものは、活かし、選ばないものは選ばない」というだけのことになる。

まー大局的なところは沈黙。
布、とことんやってくれ。

自分のチームはあと二つ勝って、選手権の都予選のリーグにはいっていける。

その二つがむずかしい、というのは、言わずもがな。
誰も、負けるために、やってくるやつはいない。
理屈やら練習内容をこえて、ぶつかるわけだから、どこに勝機をみつけるか?

相手を見れば、あと一月考えるわけだし、見られない場合だってあるわけだから、そうなれば、当日必死に考えて、試合が終わる前にコーチが「勝機について、ひらめく」のを祈るのみである。

ひらめかなかったら、どうするの?と言われれば、「負けるか、勝てないか」とこたえるしかない。

この夏は、練習終わると、赤坂にもどって、酒もビールもなんだって300円、おつまみもこれまた300円なんてところで、生ビール呑んで「さてどうするか?」なんて考えたりしていた。

当然、TBSのテレビ局の人間みたいなやつらがいっぱいいるなかでの、ジャージ姿のコーチだからめだって、2回目からそこの韓国人のママに面体知られるところとなった。

ひとはいろいろな生き方をする。

どこのチームへ行っても「俺がおまえたちにサッカー教えてやる」ではなくて「きみたちといっしょに、サッカー学んで行きたい」っていうほうで、この言葉に嘘はない。

ところが、同時にサッカーって「学問じゃない」じゃんというやつらもいるが、わたしは「学問って言う必要もなければ、そういうようなこと(サッカーも学問だ)を言う奴は夜郎自大だと思う、しかし経験的には、実学だと思っている。

結果がでなかったり、改善やら向上がみられなければ、その理論は理論じゃないというそういうスタンス。

まったく唐突だが、こんなことを言っていたら、その昔、経済評論家の植草某氏が同じく経済評論家の木村某氏にテレビでこてんぱんにやつけられて、涙目になってしまったことを思い出した。

そのとき、木村氏の言い分も、実行して効果でないのは理論ではないということであった。 それで植草さん、泣いてしまったわけだが。

植草氏ご承知のように、今、裁判にかけられています。

理論だけで、闘っていくというのも苦しい商売だなと思う。

理屈と膏薬はどこへでもつくって、大学者やら大インテリにいったらやはりまずいということはあるだろう、けれどそんなものではないのかという思いを捨てられないのが、自分のような、浅学非才おまけに、軽薄なやつの実は胸のそこに巣食っている思いである。

自分の持分の理論対理論で勝った、負けたのまえに、別なことでストレス発散させたつもりが、捕まってしまってあまつさえ、おばかなことは「このひと=植草氏はもはや、裁判の結果がどうだこうだでなくて、終ってしまっているじゃん」というそのことが、「わからない」わたしの、呑みやでの常連客に言わせれば、「人生の挫折知らない」から、とんちんかんな言い訳、タイミング悪いときにしてみたりする、「世の中、最後まで理屈が通る」と思いこんでいる、というように酷評されたりする。

まー、どうでもよろしいが。

選手に、どう言ったらよいか?
「ゲームはむろん、おまえらのものだ」
「勝つために、精神いれこんでも勝てない」
「ひたすら、勝つための、スキルを出せるか、出せないのか、そこに集中しかない」と言い渡している、そこ(スキル)に、集中が、イコール勝つことに集中と思っているからである。
けっして精神主義を否定ではない。

集中すべき「対象」をアドバイスしているわけだ。

スキルをせまく解釈しないで、相手がファウルすれすれであたってくるとしたら、それにどう対応するかも含めて、それもスキルだとしておきたいわけだ。

仮に、ゲームがテレビで中継されれば、解説者は「どっちに集中力がかけているとか、」「気合がたりないとか」言いやすいことであるし、そのとおりのこともあろう。

だがそれは他人が言っていることで、勝負というものが、この世にあって、それが良いものだとすれば、それはまさに他人がどうこうではなく「君自身の気力のもりあがり」「君自身の技術の鋭さ」「君自身の戦い方の狡猾さ」などで、相手を上回りにいくわけだから、その君自身にかかっているというそのことが良いことであるはずだと、それだけのことを「考えろ」としてある。

解説者も親も、どんなことを言ってきたって、別に「関係ないぜ」という、それがいいのではないか。

こうやって他人の息子たちに、勝とうが、負けようが、とてつもない一瞬を味わさせる、のが、コーチという商売である。

オリンピックで、どの種目のどの選手が言ったか忘れたが、「どうしてコーチにメダルがいかないのか」という言葉を社会はたいして重視はしない。
そういうものだから、別に、文句はないのだが、いやそれはそのとおりでしょう。

同じ酒場で、全然サッカーと関係のない話をしていたときに、「だから、この世の、秘密は、とことん」ということでしょという話になった。

「なんじゃい、それは」「いや、だから医者でもなんでもね、不治の病というものに対してでもですよ、3分の診断でなくて、」実際にありえないほどに「その患者を面倒見れば」結局患者は多分救われるのですよ」「ほんとかい、それでガンがなおるっていうの?」「いやだからそれはない、しかしほとんどの問題は」「とことん」というキーワードで解決するわけ、ただしそれを許さない、できないという社会があるわけだ。

あることに、とことん、かかわれるかどうか「言うは易く行うはなになにである」しかしそれが答えではある。

自分もそのことを「やれない、やっていない」にもかかわらず「それは、答えである」と思っている。

しかし、かかわれない、ではほかに方法がありますか?といわれてはたと困るというわけである。

にもかかわらず、方法ありき、みたいなこと言っているのは、まず香具師、ももんがの類いである。

オリンピックで選手を優勝させたほどの、コーチまずは「その、とことん、行ったとしか思えない」それぞれの方法論はわからないが、それだけは推定できる。

いつも引き合いに出す、ラグビーの大西先生のことを書いた本(知と熱)のなかに、マラソンの瀬古を育てた、陸上のコーチ中村清のことが書いてある。

「早稲田競争部監督へ就任した際、初対面の部員たちに、諸君らのためなら私はなんでもできると言い放ち、いきなり地面の草をむしるや、自分の目にこすりつけた。土を食らったこともある。」で、そのことをふまえて、大西先生は早稲田の最終講義で、こういっている 「合理的な方法や科学的な方法、わたしが今言ったような知性的な方法だって、そのことをうーんといっしょうけんめいやる、そやけどそれで勝てると思ったらまちがいです。そこで勝てない所がスポーツの妙味なんです。私はそう思うんです。
中略
やっぱり中村清先生のように、あんなおかしな人がワーッとこうやって、クアーっとこうなって、いっしょにガーッとやって世界一になりよるんです。そりゃなんだということですが、これはほんとうにおもしろいことです。

ここのクアーとなって以降、読んでいて、まったくわからないでしょう、わかったような感じにはなるけれど。

自分など、箱根駅伝で中村先生が「都の西北、早稲田の杜に」って伴奏車で、がなっているのをテレビでは見た世代だから少しは、わかる。

大西先生自身、はたから見たら「おかしな人だとおもわれていたのに」そのひとが「中村先生はおかしいと(むろん敬意と愛情をもって)言う、で、相川さん自身がいまだ中村清になりえたか?大西先生になりえたか(こたえはいまだしであるが)それは未明であるが、 ヒデイングだって、やはりなにかあったはずで、さーこれからジーコはどうするのか?そこだけに視点を集めても、これはなかなかおもしろいテーマではあります。
(この項終り)