コーチの心得

2003年9月06日(土)

人生の途中で、食うために、アメリカ資本の会社勤めなどをしたが、まーそれはしかたがなかったことで、結局はサッカーのそばにずっといたい、というその気持ちだけが昔から、今も変わらぬ思いだという、こんなことが人生なのか?という驚きも時々浮かぶが、「では、明日どうするのか?」といえばまたグラウンドに出て行くわけだ。

グラウンドには、いつも高校生がいてかれらには、むろんコーチの心のなかに多少はある「屈託」というものがない。あるようには見えない、やがては彼らも、大人になって屈託を放射し出すわけだが、グラウンドの上ではまた、次の世代がきて、最初は警戒する表情だが、次第に、「サッカーやろうか」という顔つきになっていく。

いつかひとつ前の世代の経営者だが、クライスラーのアイアコッカという人物の、本を読んでいて、彼が、会議の冒頭でユーモアを見せたり、ジョークを飛ばしたりということは「しないのだ」というところに印象をもったことがある。

赤坂芸者の銀子姉さんなんかには、「相川さん落語好きでしょう」とすぐ見破られた、つまり語り口に小学生の頃からラジオで聴いていた落語家の話しのしかた、おとしかた、描写のしかたなどの影響がある、ということを彼女は言いたいわけだ。そのとおりで、あるからして、その影響に支配されて失敗したということも多い。最初から「くだけて」相手にあたって「失敗」ということである。

アイアコッカはその反対のことを指摘しているわけだ。

最初に「くだけてしまうと」そののちのコントロールがきかなくなる、というようなことを、なぜジョークを言わないのだという理由として言っている。

1973年のテヘランで、クラマーさんが最初の講義を行う朝、教室に遅れてやってきた3人だったかのイラン人コーチが即座にたたき出されてそれっきりになった。
英語でいえば、
Always coaches have to be on time.
ということになる。

そしていきなり、最初に権威を出すという方法でもあるわけだ。

若いうちはこの方法をなかなかコピーできるもんではない。
顔つきとか、からだからでてくる押し出し、というようなものもむろんその方法をサポートするわけで、あるし。

ところで、戦後の日本はよってたかって「偉そうなものとか、偉いんではないか」とおもえるものをかたっぱしから、地上に叩き落す、というようなことを、それが人間の平等を現すことでよいことだと、いうようにやってきたふしがある、また急いで言っておけば、「偉そうなもの」の側も実は、ただの偶像であって、壊れても壊されてもしかたがない存在でしかなかった、という面もあった、それにジャーナリズムであれ、なんであれ、そういう「深く検証すれば、こいつもあいつも、ただの卑しい人間であった」と結論つけるのが好きだというそういうこともある。

そういう社会の中でそだってきた、子供達にすれば、権威というものはまずなじみがないものとして、目に映るだろう、世の中結局は勉強している奴と勉強していない奴に分かれる、ということがまだ理解できないから、こちらが勉強していても、勉強していないものとミックスアップされていることもあるだろう。

むろんここでいう勉強は世の中の、この社会のなかの勉強で学問ということではない。

Medical企業で働いて思ったことは、医学という学問の厳密性で、例えば病気のありよう、人体の器官の名前のつけかた、細胞レベル、分子レベルへ研究はどんどん進むわけで、100年前なら、名前のない対象に、名前がつけられ、その名前を世界中のドクターが受け入れて、現象としては、まだよく解明されていないことを議論したり、ペーパーを書いていくというそこが、サッカーのコーチの雑駁なところとは1光年の間隔で差があると思った。

なにしろ、サッカーコーチ同士が語るためには、言葉の意味をすりあわせていかないと、話しが進まない。
というのは、結局サッカーをめぐる万象が、厳密にこうだああだと定義されていないで、進んできているからであろう。

亡くなられた、西邑さんというのは代表でもあったし、まだ読売が2部のころ、監督で自分がコーチとして仕えたわけだが、ある日グラウンドのうえで、「相川くん、XXXXのプレイな、関西でいえば」「どんくさいやっちゃ」というんだと、いう言い方をされた。
最高レベルのサッカーを体験された大先輩ではあっても、感覚とその感覚を言い当てる言葉で、サッカーを解いていくのである。

まーそれでよいではないかと、大多数のひとはそう言うであろう。
そのとおりでサッカーは科学ではないしね。

しかし科学ではないけれどコミュニケーションが成り立たなければ、ならないのはそのとおりである、
● よその平凡なサッカーコーチが、「一聴」くだらないことを言っている
● よその非凡なサッカーコーチが、言い古されたことを言っている
● よその非凡なサッカーコーチが、嘘のはしばしに意外と、本当のことを、もらしている
いくらでもあるわけだが、そもそもは、勝負の世界だから「他人に利益になることを、簡単にもらしてくれるはずもない」というのが、普通だろう、他人の口車に乗って「負けてしまいました」といっても、おめでたいのは「おまえだ」という世界だから。

新聞でこのごろおもしろかったのは、ネルシーニョが名古屋にいって最初の試合か2試合目ごろ、名前は忘れたがグランパスの選手が「今は、監督が言っていることは、ぼくらにはできません」とコメントしたこと。

それと以前にベッカム、スパイク事件で、当時は報道が「別になんでもない」ような調子であったとき、この日記で、「そんなこたあねーだろう」と私は観察したのだが、案の定、ベッカムの手記から、「ファーガソンが、アーセナル敗戦の責任はおまえ=ベッカムがとれ、」といってスパイクを蹴り上げて(投げたんじゃないかと思うが)ベッカムのひたいにヒット、そこでベッカムは監督になぐりかかろうとしたが止められた、とある、まーそういうことでやはりあったわけだ。
ある意味で真相が知れて、今はまた別な意味で、その程度のこと「なんでもない」ねと思える。

スパイクが飛んでくるのと、灰皿が飛んでくるのと、どちらがより文明的か?
同じだろうが。

言葉や書物やらあるいはテレビの映像のうえでだけ、世界は日1日と、文明にむかっているかのようには、見える。
しかしそうでない、現実があるだけだ。

これもまた誰も言わないので、サッカーに関係はないが、書いておくと、小泉アドミニストレーションは自衛隊のイラク派遣を決めた、決めたころは、ブッシュがイラク戦争終結宣言をした、だから、「安全なところがあって、そこが自衛隊の担当」という話しであった、ところが今はまた違ってきている、で、小泉アドミニストレーションはむろんおよび腰だ。

その法的理由もわかる、でも基本的に「安全でないところに行くしかない」から軍隊なのだろう、むろん自衛隊は名目軍隊ではない(というような議論していてよいのだろうか)

田中真紀子が外相時代に、「会わないことにして、そこでまず物議をかもした、アーミテ-ジ氏」に会ったことがある。

そのアーミテージに「これは(イラク派兵)茶話会にいくのではないのだ」Donユt walk awayと日本側が言われたというそうだが、これはもう最悪の表現を投げつけられたということである。
おまえは腰抜けか?「へらへらして、はい腰抜けでーす」と言っているようなものである。
できれば暴力のウズのなかに入っていかない、暴力ではなくわかりあえることがよいのに決まっている。

しかし仕事を「やっていく」と良いか悪いか、ファーガソンのように、ベッカムにスパイクヒットさせてしまう、イラクで、カメラマンのかまえたビデオ機械をロケット砲だと思って、アメリカ陸軍兵士は仕事をしているのだから、とっさの判断でカメラマンを撃ち殺してしまう、ベッカムは「監督」になぐりかかる。

世間にはいくらでも、とっさの襲撃というものがあるわけだ。

ゲームでとっさの襲撃をくらってもゲームを失うだけだが、失ったら最後、すべてをなくしてしまう、状況もあるのがこの世である。

日本学園はこの5日に、都大会の、対戦相手が決まる。
一方FC杉並も関東クラブユースリーグの2次リーグに出て行く、相手は浦安、町田、奥寺で2チームぬけだから、手堅くやれば、決勝トーナメントに行けるだろう、優勝チームにJユースカップ出場権があり、準優勝チームは北海道・東北代表チームとのプレーオフとなりますという連絡だ。

コーチでさえ選手を訓練、訓練ということでさきほどのアイアコッカの例でいけば、最初は、緊張をもちこむ、最初から、弛緩のもとである柔和さとか、微笑とか、寛容はもちこまない。もちこめば選手が馴染むのはわかっているが、低いレベルで推移することをコーチはこわがるから、わかりやすくいえば、ファーガソンの激情を評価する。
ただ高校生のメンタル面まだまだ低い「から」結局はどこかで、少し「やわ」なことを見せてやらないと、そもそも、脱落していってしまう、そこが腕の見せ所ということになる。
(この項終わり)