敗因21ヶ条


2005年8月23日(火)

東京の選手権予選は、18日、20日、21日の3日で、都立忠生、目黒学院、都立成瀬の3チームを、いずれも3-0で破って、また都大会に出られることになった。

去年は意気込んで、でていった最初の1回戦、雨のグラウンドで、対実践1-1のわけ、実践がそののちはしって、東京代表になったわけである。

1年と言う、時間がたつのも速い。

柄にもなく、福祉大学の、総長の某氏のラジオ講演に耳を傾ける。

そのひとのいわく「われ、決断にあたって後悔なし」だと。

高校をでるとき、大学に行けとみんなからすすめられたが、たったひとりの母親をはやくらくにさせたいので、八幡製鉄にはいって経理を担当した、18才の経理マンの前に、ある日、下請けの、工場のおやじがやってきて「うちの会社の書類を一番先頭においてくれたら、わたしの会社が倒産しなくてすむのですが」といってきたが、18才の経理マンでは、それを諾とすることできず、すこしして、新聞でその、おやじが自殺したことを知って、とっさに、どうやったら、このおやじを死にいたらしめた責任をとるかと考えて、とにかく会社には、いられないと辞表を呑んで、上司にあいにいった、上司が「辞めるのはよいが、明日から、きみはどうするんだい」「それがわからない、からそれを考えるために、辞めるわけです」と告げた。

それ、以前にある新聞記者から、「就職するか、大学に行くか」ということで相談をよせたとき「きみ、人間は、そのとき、やるしかないということを懸命にやって、それで転進せざるを得なかったら、転進すればよいのだと」言われたことがあって、東京に出て、その当時いちばんはいりやすい大学が早稲田であったから、早稲田にはいった、というような話しである。

高校サッカー「なんど」というと、こいつは生意気なやつだと思われるが、それは、どんな、バカな指導者であっても、Jリーグの指導者、のほうが、動機があり、見かえりが多い、環境であろう。
Jに比べれば、高校サッカーはやはり「なんど」である。

動機というのもいろいろあろうが、目の前に、例えば「岡田のサッカー」を見せつけられれば、「その程度が岡田の知恵かい」と、むくむくと反発心がわいてくるわけで、「だったら、やつけてやろうじゃないか」と、いくつになっても、なんか基本の、動機で、自分でもおかしいんじゃないかと思ったりする。

ところが、高校サッカーはそれこそ「なんど」で、なんで「こんな、サッカーを高校生たちに、強いて、それで、日本はどうなるのだろうか?」という思いに、囚われる。

山本七兵というひとの、名前知っているひとも次第に少なくなったのだろうが、たまたま書店で「日本はなぜ敗れるのか」というそのタイトルに興味ひかれて、その本を買って読んだ。
それは、小松真一というひとの書いた、虜人日記という、(小松さんは、先の大戦でフイリピンで戦争捕虜になった人物)、本を、山本が読んで、日本が戦争でなぜ負けたのだろう、旧日本帝国の軍隊はなぜ、米軍に負けたのだろうかまた敗戦後の捕虜生活のなかで、どうして、恥ずべきことがらが、多発したのか、ということへの、山本なりの、感想なのだが、その小松というひとが、敗因21ヶ条というものを列記してある。

すなわち
1) 精兵主義の軍隊に、精兵がいなかったこと。然るに、作戦その他で兵に要求されることは、総て、精兵でなければできない仕事ばかりであった武器も与えずに米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
2) 物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
3) 日本の不合理性、米国の合理性
4) 将兵の素質低下(精兵は、満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
5) 精神的に弱かった(1枚看板の大和魂も戦い不利になるとさっぱり威力なし)
6) 日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
7) 基礎科学の研究をしなかったこと
8) 電波武器の劣等(物理学貧弱)
9) 克己心の欠如
10) 反省力なきこと
11) 個人としての修養をしていないこと
12) 陸海軍の不協力
13) 1人よがりで、同情心がないこと
14) 兵器の劣勢を自覚し負け癖がついたこと
15) パーシー海峡の損害と戦意喪失
16) 思想的にてっていしたものがなかったこと
17) 国民が戦いに飽きてきていた
18) 日本文化の確立なきため
19) 日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
20) 日本文化に普遍性なき為
21) 指導者に生物学の常識がなかった事

それぞれが、戦争中、戦争での敗戦後、の現象のよってきたる、原因を言っているのだが、小松氏、ならびに小松氏の洞察をベースに山本氏が、なにを言いたいのか、理解したいひとは、本を直接読まれたい。

縁あって、サッカーのコーチなどやっていて、別に、サッカーの試合と戦争の類似性など、考えるだに、バカらしいのではあるが、ここではとにかく、簡単言えば、この21ヶ条が、いまだに日本の社会の伏流として、あるからには、サッカーの試合そのものも、「どこか、日本ローカルでしか、通じない」キャラになっているというのが、わたしの、ずっともっていた思いである事をいいたい。

だから、予選3試合を、慎重にとって、むろん勝負の世界のことだから「自分が、そう思えば、そのとおりにでていって、勝てば、よいわけで」都大会にもむろんその思いで臨むのだが、それより、この予選前に、暁星を8-0で完膚なきまで叩きのめした練習試合のほうが、よほどに、良かったと思っている。

相手は「いや、ただの練習試合ですから」というに決まっているのだが、そうではなくて「いや、こちらも練習試合という気持ちで」確かにプレイしていたわけだから、そのうえで、の「この差」の「よってきたる理由を考えて、評価していくわけである。

そこらへんを書きたいなとも思うが、書き切れるものではないので、やめておく。
都大会でまた赤恥かくのもいやだしね。
(この項終り)