驚きのプレイ

2004年8月20日(金)

ねばる、学芸大学付属は3-5-2採用だが、むろん3-5-2というのは5バックである。
こちらは、この程度の相手では、4-4-2はそのまま「だから」こちらの2トップがマン・マークにあって、なかなかトップのところで、相手を「うろたえさせる」という場面にはならないものの、そのうち、トップ対相手3バックのところで、優位に立てるかみたいな「期待」をもって見ている。
そうなってもらわなければ困るわけで、それだけのトップを打ち立てていくというのが「準備」の中味なのだが、ひとりは、初戦で負傷、もうひとりも、故障持ちで、その故障も「がまんしろ」とはなかなか言えない故障なので、要は、期待が現実にならない。

こちらのサイドバックは、相手のウイングハーフに「見られる」わけで、見られてもいいからサイド攻撃を「あんたが担当するんじゃないの」と思うのだが、スペースが「ないと」まー簡単に言えば、「機能しない」魅入られたように、相手のゴールのまんなかに、力ないクロスがはいるだけで、ある。

いつも言うのだが、帝京にいたころの、田中達がほしいわけだ。
だが、達はどこにも「いない」

こちらの4バックに相手の2トップがいるわけだから、それをラインのまま、守るためには、ある場合は、こちらの守備ハーフを、ラインに「呼んで」2ストッパーのどちらかが、あまって「カバー」役「か」 サイドバックを「なかに」こさせてカバー(誤解おそれず言えば)サイドが見るはずの相手のウイングハーフなど「放っておけ」である、なぜって、弱い相手が、こちらをやつけるのに「守って、守って逆襲」という戦法に「賭けてくる」とき、ボールサイドに遠い相手のウイングハーフに「つなげてくる」ということは、考えにくい「からである」だからハーフタイム、

1) 守備ハーフをラインに呼びこんで、ラインをつくっても、それはかまわない、だが、それ「も」いわば臨機である
2) できれば、2人の守備ハーフがラインにはいってしまって、じゃーストッパーのひとりは、どこにいるんだ、とそういうラインのつくりかたが、あたかも固定してしまっていたら、じゃー、ハーフのパス交換ということは「どういうことになるのか?」と、だから、ハーフをそう言う意味での守備からは、できる限り、解放しろと、した。
3) 前半はこちらの「あがりめ」がトップにはいってしまって、ハーフではなくなっている、3人おいたボランチのうち、2人はいま2)でいったように、ラインにはいっている、だからたったひとりのハーフがボールを配る、みたいないちばんいやなかたちになって、そいつが、天才ならともかく、読みきられた、パスを次ぎから次ぎへと、だしてしまえば、相手に驚きをあたえるという状況にほど遠い、したがって、トップがシュートを撃つという場面が見えない。

本来は、こういう内容になると「守備戦法を採用したチーム」の勝ち模様に「なる」のがサッカーであるわけだ。
念のためにいっておけば、前半相手シュート、まったく「なし」危ない雰囲気もなし、1-0でリードである。

だが、高校サッカーだからか?サッカーだからか?「なにが起きるかわからない」というのだけは、骨身にしみていて、1-0で守り切る「なんていう」感覚そもそも「ない」つまりここがイタリアならば、コーチも「きょうはこれで終わり」ってなもんで、ひいて守り切って、というような戦法(守備)になるわけだが、そういうことは日本の(高校サッカーでは)寝言のたぐいになる。

だって、まずグラウンド、土である。
レフェリー怪しい。
ホームだアウエーだなんてことない。(ないことを、例えば自分が読売のころアシスタントでつかえた、バルコムなんてオランダ人コーチはしつこく試合前に言っていたという経験をもつ)

だからサブのところで、追いつかれたら「投入」のプランはそのままに、先ほどのべた、こちらのラインのつくりかた、ハーフを攻撃にでられるようにさせるのだが、今度は、サイドバックが、ワイドをとれなくなるわけで、とくに左サイドが「出ても、出ても」相手に読みきられて、いわゆる外にひらくパスがでても、そのあとが、相手に「驚異でも脅威でも」なくて、こりゃ「才能のかべかね」と思っているうちに、こちらの守備ハーフがちょっと、考えすぎて、パスを「いやなとられかた」をした(が、その場面からは、失点に結びつかなかった)
しかしおそらく、そおのワンプレイで、その守備ハーフ、頭のなかパニクッた「まま」次ぎの場面で、なんと相手のハーフの、前に、でてしまい、要は、ノーマークの相手のハーフにロングシュート撃たれて、またそれが、試合を通じて相手たった一本のシュートなのだが、それが決まった。

そういうところが、今も昔も、サッカーがサッカーたるゆえんだろう。

いや学校秀才、学芸のベンチ喜ぶまいことか、だが喜ぶのはいいけれど、「さーこれで勝つぞ」とか「相手(日本学園は)攻撃の方法がなくて、困っているぞ」とでかい声でいうのは、間違い。

同じことは、2度と起きない、とふんでいる。
先ほどのべたように、「攻撃サッカー」どうしたってトップの活きの「よさ」があって、はじめて、「できる」わけだから、その活きのよさを「感じなかった」ので、1-1から、ひとりトップを変える。
1-1になって、あたりまえのごとく都大会にいけるはずが「ひょっとして」ここで「自分たちの選手権、終りか?」と「選手は、恐怖感におそわれたのか」右サイドバックがはじめて、タッチにあがって、だが相手にボールはじかれそうになって、無理やり、そのバックの背後にボールつきだしたが、誰が見たって、この1対1、相手バックの勝ち、というようないわば、見え見えのドリブル??といえばドリブルで、あったが、相手の目の前を普通は、結果、相手のバックに走るコース、からだいれられてしまうところを、なんと、こちらのバックは相手の右からつまりボールは相手の左に、こちらは相手の右からそのボールを追った、という、信じがたい、プレイになった。

見ていたベンチが信じられないのだから、相手が信じるというか、まさかというかたちで、こちらのバックが、ゴール前でフリーになって、小さくクロス、逆サイドから、こいつも、ずっとはずしまくっていた、あがりめハーフが「ずどん」と蹴りこんだら、それがタイムエンド1分前で、で、やはり学芸「甘かった」ねといえる結果になった。

学芸の選手「泣いている」

こいつら日本のエリートだから、あと20年でも、30年でもたって、相川さんとっくに、このよにはいないだろうが、、なにかのおり、おっさんになってどこかの高級料亭にでも集まって、「あの年の、選手権、もう少しで、都大会に行けたのにね」というような話しで、酒呑んでもりあがることだろう。

その20人なら20人のなかで、ひとりでもいいから、「そのとき1-1で、喜ぶ代わりに、なにが勝敗の機微をわけたか」「語れる、やつがいたら」そのときがほんとうに、日本はサッカーネーションになっていることだろうね。

サッカーのコーチなんか「やっている」ということは、別にたいしたことではないのだが、「他の仕事についているのと、」「同じで」だいたいのことは、見なれた「ことになってしまう」
佐賀の鳥栖で、サガン鳥栖の松本育夫さんと酒のんでいたときに、育夫さんが「相川さん、サッカーっておもしろいわ」と何度も言われたわけで、それはどう言う意味で言われたかは別に、正直なところであろうし、口はばったいいい方だが、育夫さんの人生にとって「はりがある」というならば、まったく「そのとおりであろう」

ただ、職業がら、サッカーの試合を「見て」「見て」また「見て」で、倦怠もむろんきてしまうわけだが、こんなローカルなゲームでも「こういうプレイがあった」という驚きのプレイを見ること「も」できるわけだ。

ヘーシンクというのはオランダ人で、柔道金メダルとった選手で、その彼に負けたのが、神永さんという、もうなくなられたひとだが、当時は今以上に、御家芸柔道、なんで日本人がオランダ人などに負けるのという批判がつよかったときである。

で、その神永さんの言葉が、新聞にとりあげられていて、「自分が負けて、ヘーシンクのパワーに負けた、負けたと、言われたが」「そうではなくて、あきらかにそのときのヘーシンクは体力も技術もそして精神力もわたしより勝っていた」というような意味を言っていたということである。

ラインのあげさげ「で」負けたとか、ちょうちんだとか言う話しでは、いつも「ない」のがスポーツではないのか?
仮に、そういう現象が確かに「あった」として「選手は例えば、ここでは、あげたい」というように、思って「やっていて、でもできない」ということだろう。
だから、「あげておけば」どうした、こうしたということいわば「全体の一部じゃないの」である。

コーチは、分析はする。
全体を、要素にして整理したりはする。
で、全体をどうする、というとき、「早い話しが」「戦え、闘え、相手やつけろ」ということにしているようだ。
そんなんで好いのですか?といわれそうだが、好いと、思います。
だって他に、方法知らない。

10月から、選手権都予選、もう年の暮れだよ。
でへっだね。
(この項終り)