コーチの任務

2004年8月19日(木)

17日6-0、19日7-0で、はたから見たら「あたりまえのごとく」勝ったというようなゲームであるが、そこは勝負の場だから、先取点とるまでは、10分、15分と、「結果でなくて、いわゆる、押していて負けるパターンだって考えられる、試合展開のところを、終わってみれば、初めて、むろん負けるわけでもないということになって、明日、勝てば、また都32のなかにはいって、年の暮れ、どこまでいのちが伸びるか、という、ことにあいなった。

世間はまずオリンピック、柔道だ、北島だ、体操復活だがあって、そこに、高校野球あり、プロ野球あり、ジーコジャパン対アルゼンチンあり、みんな「寝不足」(だと口々にいっている)そのなかで、の日本学園、都大会行きの争い、思いきり「分が悪い」

さて、山本ジャパン、やっとガーナに勝ったけれど、気になるのは、山本が「アテネ経由ドイツ」だなんて言い方で、別にオリンピック「(負けても)いいじゃない」という雰囲気だしている、ということ、「優柔不断」絵に描いた、田嶋も「山本評価高い」とかいって、日本にもどっても、山本に札入れしそうな雰囲気である。

これむろん「ちがう」
山本、いったん野に「自ら」下るべきである。
理由は昨日のように、ジーコジャパンが「練習試合」でアルゼンチンに負けた、というのとは「ちがうからである」
公式試合で「負けた」ということの、その(理由のいかんを問わず)意味を軽んじたら、「なにも世の中変化していかないからである」

山本の敗戦は実は「山本個人の敗戦」ではなくて
ジャパンが、トルシェの指導により、もろもろの好条件(ホームジャパンでの試合、予選の免除等々)あったにせよ、望外の結果、2002年に手にして、さて、ジャパンサッカーとはなにか?という道行きの、入り口に立てて、「当然に、その先に」トルシェの道「ではなくてもよいし」トルシェの道の「微調整」でもよいし、いずれにせよ、サッカー志す、高校生に対してであっても「これでよいんだ」という道を「提出」するということが山本にあたえられた「任務」であって、その意味では、「まだ、それが」「なかった」というそのこと自体がが、日本人の敗戦ではなかろうか?

だからジーコが、トルシェの守備策、守備戦法なんか「知らないぜ」公認コーチなんかしらないぜ、自分はかってワールドカップにも出た、ジーコの経験からして、「あれはだめ」「これはいい」と代表にサッカーやらせているので、すくなくとも、その苦闘の道の行く先に、まだ「可能性」はある、とわたしなんぞは思っている。

それにしても、山本ジャパンが負けたとき、自分の知る限りでは「川本治」だ「清雲栄純」だ「たかいところで、たかいところでの合唱」「まずはこのうえなくレベル低い」といわざるを得ない。

だって、このひとたち、まともに腰すえて、(サッカー以外の)戦争の歴史でも学んだりしたのだろうかね?
日本軍がハワイの真珠湾奇襲かけたのだって、後年あれが卑怯だとかどうかということは置いても、では、もう1度、アメリカと戦争やって、また真珠湾奇襲「ほんとにするの、どうなの?」ってだれでも思うじゃない。

嘘かほんとか、金正日でさえ、アメリカの携帯電話の電波誘導、爆撃を警戒していると言われている。
つまりどんどん攻撃と守備の発想は変化していくわけだ、変化させていこうとする人達を、コーチというのであって、そのコーチたちが「自分のアイデアが、正しいという、その担保はなにか」実は、やってみなければわからないという現実のもと、脳髄をふりしぼって、くふうしているのであって、マスコミはいずれも「ばかだから」おかかえ評論家が「高いところ、高いところ」とさえずっていることに、奇異を感じないで、バカ面さらさせている。

そういう意味では、今、アテネで戦って、結果、金とっているのは
殆ど、個人スポーツである(体操の団体だって、個人の集合みたいなものだから)で、団体スポーツ苦戦している。
女子バレーの柳本ジャパン、女子ソフトの宇津木ジャパン、女子バスケットはもう敗退、野球の中畑ジャパンもどうなのか?
コーチの興味はやはり、「そこに」行く。

どの団体スポーツもけっこう「基本的には体力は」「あちらが優位」にたっていて、とコーチが口にしている。
「だから」「こうくふうしている」「あいての体力前面の闘いかたに同調しないで」といっているが「なーに」「相手が体力を前面に出している」というのはこちらの誤解でしかないかもしれないじゃない。

お名前わからないのだが、NHKで柔道の解説されている「かたが」例えば柔道素人よくわからないのだが「ああ、今、日本人選手が勝ったのは」「組み手がこちら優位であった」なんていうのを聞くと、なんだかうれしくなる、という、そういうことである。
組まないで、相手を投げ飛ばすことはできないのだから、ではどうやって「組むか」みたいなことが、おそらく柔道の勝負をわけるところなのでしょう。
だからそこに理屈があるはずであろう。

では、サッカーの「組み手」にあたるものはいったい「なにか」
そこで山本ジャパンが高校生にもヒントでもあたえてくれる方向性をアテネで示してくれたら、それでよいではないかというのが、自分の言いたいことである。

というのは酷な言い方をすればこういうことではないのか?

●全員の意識を守備にむけて予選を勝ち取った。
● どうして、そういうことができたかといえば、自分が国内でプロであるにもかかわらず「プロらしくない」自己主張など皆無のロポットジャパニーズを集めてきて、守備戦法をチームのテーマにして、予選突破した。もし、その予選段階で「小野なり、俊介なり」が「いたら」いったいどうやって、「王様みたいなプレイ」と「どかたのようなプレイ」とのチーム内、同居を山本整理できたろうか?
● アテネにいけることになったので、非常に無邪気な発想で「これで、攻撃にアクセントつけられるやついたらいいね」と「今まで戦ってきた、やりかた無視」「いままで一緒にやってきた、やつらを無視」「いままでの、リズムのあいかた無視」して「小野」を呼んだ。
● 小野は悪いことに、「ひとのむなぐら掴んでも、」「俺のいうこと聞け」「タイプではない」から見た目はともかく、選手のあいだに、「これで勝てる」という思いは定着しなかった。
● いままでのリーダーはだれであったのか?そいつは小野に、プレッシャーをかけたのか?

こういうことを、山本、充分に考える時間があったわけで、その応えはだしたのだから、結果責任むろんとらなくてはならない。,
むろん、田嶋もである。

個人的に「誰がいいとか悪いとか」そういうことはない、
ただサッカーのやりかた「個別性を認める、やつが」協会にいたほうがよい。
だれがやっても「高いところ、高いところで」というのはよろしくない。
それはある場合は、有効な「ひとつの戦法であるわけだから」それだけのことであって、それこそとんでもない、4トップなどという漫画的主張で、「わたしは、勝つ」というやつを選ぶことだってあっていいわけである。

個人(=コーチ)の、右顧左眄的な、ひとの真似ではなくて「自分は、こうやってサッカーを選手にやらせる」という態度が尊重されるべきである。
ついでに、なまはんちくな「日本人論などふりまわして」代表チームを論じている、似非評論家も無視すべきであろう。
(この項終り)