選手の闘いへの情熱

2004年8月17日(火)

16日(月)明日の試合の相手の、多摩大目黒の眠くなる試合を狛江高校でチェックしたあと、
夕方、フジサンケイ新聞読んだら、(鬼の首とったようにはしゃいでどうするの?だが)イタリア戦の2点目、のFK最初は小野が蹴ろうとしたら、ベンチから声あって「おまえ(阿部)の得意なゾーンだから、おまえが蹴れ」というような指示があったらしい、すなわち、16日の日記でいえば「小野なんか無視だ」ではなくて「「小野さんがやる」ということであったらしい。

これをもう少し解説すれば、小野への依存心が支配的であったというわけだ。

そういう依存心が、小野を呼んで(小野の責任ではないが)「あった」という、先回の日記はただの推定だが、今回は「やっぱし」の確信に変わった。

つまり、先輩、小野、オランダでプロはっていて、FKもうまい、場数踏んだ、小野、わざわざオーバーエージで「監督=山本が呼んだ」小野、(やっぱり、その圧はあるわけで、じゃー、あなたが、小野と一緒にグラウンドに立ったら、あなた小野にやはり一目置くでしょう、「この小僧が」とは思わない(実は思ってほしいというのが結論なのだが)。

そう思って、自分を「ひとつ」さげるのではなく、「ふーん、こいつが小野か、サッカー俺より、うまいのかな」ぐらいの気持ちをもたないと、あなた自身がやっていけない、ということ、これは大変に大事なことで、とくに、プロの場合は「負けて、言い訳しまわっている、なんてことが、そもそも土壌としてはありえない」

選ばれてきた、ということが、たった1度どこかの関門通過で、選ばれてきたなんていうことではなく、何度も、何度も、選ばれてきたわけだから、普通は、失敗して言い訳なんかではなくて、コーチよりも先に、ゲーム中の不具合、表には出ないミス、要するにおかしいことに気がついて、当然なわけで、まずは仲間からの批判に耐えられなければ、やれる商売ではない。

するとここで、仲間からの批判という言い方をしたが、普通の、日本の高校チームでも、Jでも、普通にやればその批判が内向するということは、すぐわかるわけだ。

その逆のはなしが、メッツにいった、松井、名前を忘れたがアメリカ人の「だれそれ」のほうが松井より「うまい」という声が選手のなかからあがっている、という記事を読む。

プロだから「勝たなければ」要は、かねにならない。

チームが勝つためには、ゲームの分析して、改善を、考えているのは「コーチだけ」というのではなく、みんなが自分の仕事の遂行にEnthusiasm(熱と訳すのがいいでしょう)をもたなければ、やっていけない社会である。

選手も、人種差別感情、ただの意地悪そういうものも、むろんないということはないだろうが、「勝つために」は「どうすべきだ」という意見を堂々という、そういうことである。

監督の判断に「口を出す」ことはどの社会でもいけないというより、規律を壊すということから忌み嫌われるのだが、では、温厚な言い方で、かつ節度をもって、監督の「判断に」「いかがであろうか?変更してもらえないだろうか?」「だめ」「だったら監督に従いましょう」という(こう言う書き方で、通じるか自信ないけれど)(激烈に争論してではなくての)プロセスが人間と、人間だから、あってあたりまえ、なければおかしいのである。

もっとも、高校生などは「口ひらけ」といっても「ああーううー」だし、だいたい「自分が何を言いたいのかわかっていないようなレベルなので」そう言うことは期待もしない。

どうして、それが、ぎりぎりの協会批判になるのかよくわからなかったが、山本があるコメントをした、解説によれば「高原を呼べなかった」ことへの、コメントだそうだが、別にどこにも剣呑な感じのない、コメントで、日本人の今までの、生き方からすれば今まで上に書いてきたような、相川さんの、「監督のありかた」イメージなんかどこにもない、あるのは、日本的なしがらみをベースにした行動パターン、判断パターンだけであって、まーこればかりは、われわれの血であり肉であるがゆえに、しかたがないものらしい。

さてグラウンドに戻れば、だから小野への「躊躇、遠慮なんでもよいが」そうした心理の阿部に声が飛んだわけだ。
その声なかりせば、小野が蹴ったということになる。

それでも成果はでたかもしれない、ただ昔から、こう言う問題は、サッカーの中にあった。

上級生ばかりのなかに、1年生(で、才能あるものチームにいれる)とかいう状況。

そういうとき、サッカーでは「縦社会の、定理は無視される」そうあるべきだと、信じられている。

ところが古い話で恐縮だが、1974年のメキシコワールドカップでは、大先輩ブラジルのペレのトップに、もうひとり、トスタオというトップがいて、トスタオは尊敬するペレのために「死ぬほど」ペレのまわりを、走った、というように、自分などは、サッカーを講義された。

つまり縦社会「だからでなく」ても、2トップの組み合わせ、「心理学に」頼ったほうがうまく行きがちという説である。

その割には、代表のほうは、「鈴木隆之」「たまだ」のためではないだろうが、後輩たまだよりも、鈴木のほうが、走っていた。

おそるべし、無階級社会ジャパン。

市原のオシム氏なら、レアルのことを「彼らも、犬のように走っていたではないか」という所である。

おいおい、犬のようにレアルが走ったって?
高校生のほうがもっと、走る。

さて、闘うというものさしからすれば、
サッカーの選手というのは「闘うから」いいので、この場合、相手と闘うだけではなく、すでにヨーロッパで、自分を確保している、小野というビッグ・ネームと(だからといって、そんなことはどうでもよく、グラウンドで、自分のこの目で見て、この自分の頭で小野と呼吸=タイミング会わせて、初めて、小野を意識できまた小野も他の選手を意識できる、サッカー「も」そういうスポーツであるのだがとにかく、試合まずやってみろではないのである)、とにかく、そういう心理と心理の争いがまず「ある」というのが、サッカーである。

チームないで、選手同士は闘わざるをえない、(にもかかわらず)多聞闘えなかった、ということが事実としてあった、というわけである。
それじゃあ「負けだよ」

安易な、 書斎にいても、ベトナム戦争のことが(本質ということだろう)、わからなければいけない、って昔、吉本隆明が(現地に行った)開口 健にたんか切ったことがあるが(それが思想家の力量だろうということで)、さしずめ、土ぼこりがする、高校のグラウンドにいても、はるか、かなたの、ギリシャオリンピックごときのゲームなら読める、読みきるということだろう。

それがコーチの矜持であろう。

ただ、岡目八目ということはある。

部外者であるがゆえに、よくわかるということはある、
あるひとがおもしろいことを言っていた。
あのチームは、出場権得るまでは「ほんとうに、なかのいい高校みたいなチームだったですからね」このひとの観察が正しいとすると、わたしなんかは「おいおい、世界にはばたくチームが、仲良しクラブ的に運営されていたわけって、うんざりするほうである」

「なかのいい集団に」「する」というのは、比較的かんたんな方法論で、かつジャパンの伝統的なものである。
だから、ここまできたら、山本のマネージメントの中身というか底にある基本的思想が問われるではないか?
(この項終り)