普遍的なもの

2004年8月10日(火)

中国対日本の試合のあとに、日本領事だかなんとかの公用車の車の窓ガラスが割られたという「ことを」川口順子外務大臣抗議したのか?それとも「そういうこと」「も」含めて(では、なにがいけないのか?)なにを中国に抗議したのか?

北京工人体育館競技場、確かに、警官いっぱいいた、つまり中国あるいは北京行政としては、多聞、努力したのだ。

そのうえで、行政の予測がつかなかった、ことが起きてしまった、としたら、しかし、かならずしも怪我人がでたわけではないし、日本政府の財産も車の窓ガラス割られたぐらいだ、だから要は、「中国人が反日、を叫び、国旗を焼いたりするのは、けしからん」ということらしいが「そういう解釈でいいのだろうか?」

国旗を焼かれたら、
一般ピープルは「どう反応するのが、よいのか?」
日本国政府はどう対応するのか?

こうやって問題わけて、よいのか?

日曜日は赤坂の香蘭(という中華料理屋で)テレビ見ていて、そこのチャイニーズはみんな愛想よかった、だから日章旗「焼かれて」その香蘭の「お姉さんに」「おまえらな」とは、普通はいわないし、そういう感情ももたないよ。

だから衆生のレベルからしたら「たかが国旗やかれたぐらいでは」「だからどうした」と「まだ、思いたい」のである、国旗が国家の象徴であること百も承知で、相手も興奮していたのでしょと、思いたいのである、だがけんかというのは、逃げ回っているだけでは、やはりだめで、これがどうしたら「一発ぶんなぐってやろうか」という、そこへ行って良いのかみたいな、ところがある。

9・11はそうでしょう。

アメリカだって世界中いたるところで星条旗焼かれて、国家対国家では抗議もしたでしょう、アメリカ人=衆生も「いやな思いをしたでしょう」しかしそれだけでは、戦闘機は、飛ばさない。

けれど、9・11まできてしまったら、かならず反作用としての、暴力は発揮されるわけだから。

そこで暴力を発揮するのは、そういう装置をもっている国家である。

衆生は装置をもってはいないのだが、衆生のレベルで、暴力が、むきだしなったとき、国家がコントロールにはいるのか?はいれば、日本対中国のサッカー交流は、10年間禁止ってなことにだって、なりかねない。

だって現実には、高校生連れて、青島に遠征にいったとき、チャイニーズの通訳は「友好第一です」なんて言いながら、チャイニーズのレフェリー、露骨に、中国チームのほうに有利な判定する、そういう民度である。

だが、それが世界のなかの普遍なのかもしれない。

笑顔で近寄ってきて、いきなり「こちらの、すね蹴っ飛ばす」というのが。

で、そのときの相川さん、スタンドから「怒鳴っていた」衆生として、「こちらの選手を保護しなければならないのだから」「おーいレフェリー」ってなものである。

ただし、そこで問題になったとき、日本国外務省は一衆生相川を保護してくれる?サポートしてくれるだろうか?してくれないだろうね「まあまあ、大人になってください」ってなもんだろう。

衆生が救済されて、釈迦ははじめて安堵するのではないのか?
それが宇宙ではなく、人生では、永遠の真理ではないのか?
釈迦が「いれば」の話だが。

まもなく、いろいろなところで、高校選手権の予選がオープンしていく季節になった。このあいだ、桐朋で、ひきわけでPK負けしたら、もう同じステージがやってくるわけだ、ただし、この、ステージ、勝ったから、どうだもない。
卓球の愛ちゃん、勝てば、ミキハウスから、数千万円のボーナスが出るとか?
良いことである。

それをきっかけに、彼女が、アテネで、今後半世紀も語り継がれる、死闘を制すれば、衆生は満足するわけだから。

このあいだ、同期生と呑んでいて、野球のはなしになったとき、いかなる意味でも、野球の今については興味はないのだが、いやいや時空はさかのぼって、巨人のメンバーをみんな口々に語るのに、「川上哲二」なんてのは、あたりまえだが、キャッチャー「広田」ウオリー与那嶺、千葉茂、青田、藤尾、他のチームも、大洋権藤、(中日権藤ではないですよ)近藤、秋山、土井、そんなこといってただけで、1時間話が続いた。

だからどんなスポーツでもそのゲームが過ぎ去れば、終りであるが、人々のこころのなかに残れば、かろうじて、生命を得る。

ラインの上げ下げ、なんて話題は、残らない。
対中国戦、中沢の働きは,驚異であった。
誰か、それを論評しているのだろうか?

ラインがあがったださがっただ、ちょうちんだ、かぼちゃだではなく、中沢のストッパーとしての正しい評価をプロの評論家ならすべきであろう。
つまりつきつめれば、サッカー評論、サッカー解説「人物論で終始しろ」というのが、相川の主張である。

そうすれば「チームではなく」「個人を見に行く」という、アプローチが成り立つであろう。
ラインをあげたさげた、ということだけやったわけではないだろうが、トルシェが4年間その前から、どこの誰かとは言わないが、あまりにも、集団守備に強調がおかれた結果、個人として、おもしろい(それがなにかは議論がたくさんあるだろうが)ということは、じっさいに「練習で追求されているの?」という疑問を現場のコーチは感じている。

ボールが止まらないのに、おい「そこでラインあげろよ」という「確かに正しいのだが」そいつは「なにをサッカーだと思い込みたいのか?」わからないことが多い。
(この項終り)