サッカーの「勝負」

2004年7月26日(月)

オリンピック代表が、0-1で、オーストラリアに負けて、自分などは、100円の値段が気に入って、サンケイを読んでいるけれど、その記事の内容が、まーすごい。

決定力不足は解決されていない(3試合連続無得点だそうだ)

北川信行とかいう記者によれば、山本は「中盤の構成力が安定すれば前線にいいボールが供給できる。あとは3トップの距離感。修正しないと大事なところにひとが足りない」と意味不明なことを言っている。

これで80,000,000円もらっている、というのはこちらのやっかみだが、8,000,000円でもちゃんと(攻撃に関しては)あんたがコーチするよりベターな攻撃をさせてみせるよ、というのが、職業コーチ、相川の考えである。

いつも、高校生に言う(言っておいて、通じてはいないだろうから、ある意味虚しいのだが)
プロのゲームも、きみたち高校生のゲームも、同じサイズのグラウンド、同じサイズのゴールのなかで、11人と11人がひとつのボールをもって、プレイをする。
同じだ。
グラウンドの上に、なにを実現させるか?
教科書なんかに頼るな、自分で絵を描ける。

そのプレイのしかた、させ方(コーチからすれば選手にさせるわけだから)秀行先生のお言葉をそっくり真似れば「このグラウンド(天辺)無限である」つまり、どうボールを動かそうと、どう陣形(ひとの守り方の位置どり)をひこうと、ただわかっていることは、その可能性無限にある、ということではないか。

可能性が無限にあるはずだから、その天辺無限なところを、独行して、最善手をさがす、ということになる。
それが、サッカー人の行き方である。

ただコーチは、無限なことに酔ってはいられないから、与えられた、素材(選手)で、本来、無限という制限ないところに、枠を置いて、そのなかで、選手の力量をひきだすための整理を行う。

これがコーチの仕事であると、わたしなんぞは思っている。

今の、サッカーでは、中盤の(こちらの)構成力が、相手の(中盤の守備の力)に、勝って勝敗の決着がつく、という問題の立て方自体が、おかしいのではないだろうか?

可能性は無限にあるのだから、中盤のこちらの構成力が、相手の(中盤の守備の力)に、勝って勝敗の決着をつけるという、サッカーに挑戦するのも、楽しい。

楽しいが、ならば問うのは、レアハーゲルのギリシャはそれで、ヨーロッパのナンバー1になったのか?ということになろう。

構成力からいえば、ポルトガル、イタリア、どこでもよいが、ボールを奪われず、かつ、押しては、引きをくりかえして、瞬間の間をつく、隆慶一郎あたりの小説なら、優位にたつ武士が、その得意の剣を「かくふるえば」相手は、瞬間に負けて、「斬撃、ひとり即死」ってな表現があたっているような、サッカーもあるわけだ。

その、誰でもうらやましい構成力を求めて欧州のクラブは、タレントを求める、しかしトーナメントでは、かならずしも構成力が、相手を斬撃、即死ということにならない、というのもまたサッカーの世界での常識であろう。

レアハーゲルも凄いが、ブラジル人フェリポンもまたすごい。

2002年の最初のころのブラジルの危なっかしい、守備(ボランチも前線にあがってしまって、3人のラインが相手のカウンターをくらう、かまえに、しばしば、わたしなんぞは、目が点になっていたが、あれとて、監督の指示があったからであろう、で、その監督というのがあのおっさんなわけだ)

だから、ここでサッカーのコーチはサッカーを離れて「勝負」というものに思いをこらす、ということになる。

コーチが一番こわいのはカウンターだ。

しかしカウンターを恐れると、肉を切らして、骨を切りにいけない、ということでもある。

DFラインを闘莉王と組む、那須が「上がるタイミングを全員が判断しないと。失点の場面もラインがそろっていなかった」とこれまた、わけのわからないことを言っているのだが、言いたい事は、闘莉王の「批判であろう」というのは「じれたように(と、記者には見えただけ)CBの、闘莉王は何度も攻めあがった。だがバランスを崩した攻めあがりは、カウンターの危険を招いた」とあたりまえのことを書いている。

コーチ的にいえば、トルシェのばらまいた、ウイルスが、まだ彼らの頭脳を犯している。
そういえば、トルシェ君、解任されちゃったね。

カウンターの危険を招かないためには、要は、闘莉王「あがらなければいい」それを決めるのは、コーチだ。

カウンターの危険を招かない、あがりかたなど基本的には「ない」むろんストッパーのあけた、ライン上のあなに、DHが残っているというような守備上の、戦術もあるしかし、ではDHのところに、別な、誰かがいて、でカウンターくらったときに、たまたまDHを演じるそのだれかが、本職のDHより、うまく臨時DHをえんじられるのか?

そこらを思えば、思考は無限どころか、保守的になって、「めんどくさいから、闘莉王」「あがるな」だろう、グラウンド上の、無限の可能性、追求停止が実は、いちばんかんたん」ともいえる。

闘莉王という選手別に好きでもないが、彼のために弁護すれば、肉を切られるかもしれない、しかし骨を斬りにいくというのなら、那須の言う「上がるタイミングを全員が判断しないと」という言い方は、わかったようでわからないし、そんな手堅い、発想では、ストッパーの「博打」が効を奏すということは、考えにくい。

ただばくち打ちでもあった、阿佐田哲也先生の言い方では「ここでは負けて、あそこでは勝つ」という、そうやって、全体でしのいでいく、という、そういう考えを、闘莉王が理解していけばよいだけのことだ。

但しその頃には、闘莉王もからだがきかなくなってしまうだろう。

もうひとつ、言葉尻をつかまえて文句言うのではなく、「失点の場面もラインがそろっていなかった」というあれね、いやだね。
とてもいやだ。

事実はラインがそろってというのは、闘莉王がストッパーにいなかったのでしょう。
わからないけれど。

瞬間に組織ができなかったということでもあるのでしょう。
ただ数は足りていたのか?
それとも足りなかったのか?
そう考えたほうが、よいのではないだろうか?

もっと悲惨なのは「平山」

記事に、後半開始から登場。山本監督からは「勝って来い。しっかりやれ」と送り出された、とある、これもなんだかなーである。

アマチュア平山であろう。

トップは、一瞬の斬撃で、相手即死、これが信条だろう。

だから想像するに、バッジオでも、インザーギでもおのれの、何に、賭けているか?
きっと反射神経に他なるまい

おのれの反射性だけがグラウンドの上での武器なのだから、その反射性が「実際に、出るのか、でないのか?」いくら試合前に煮詰めても、答えはでないだろう、で、トップはどうするのだろう?自分なら「他の人間から余計なことを言われたくない」と思うよ。

それが「しっかりやれ」だもんね。

まーそれでグラウンドに出ました。で、ノーゴール。

自分の反省はなにか?あそこは「ああすれば」とかそういうことは、ほかの選手と変わらないにせよ、「決定機がない。自分も含めて、崩せていないということ」と、うつろな表情。

それで試合後には大久保と観客席に頭をさげた。申し訳ない気持ちからかと問われると、うなつ゛いた、んだって。

そうかなーと思います。

これで、自分(のプレイのパフォーマンスに)幕引きしてしまうわけ?

崩せないのは、かれだけの責任ではない(というのが、サッカーというゲームだろう)
良いボールがでなければ、シュートはなかなか打てないというのが、誤解を恐れずいえば、サッカーというゲームだろう。

瞬間の斬撃という表現では、サッカーでの、トップのプレイを説明できないから、そこを簡単に言えば、「よこから出てくるボール」と「縦に出てくる」ボールのふたつながらに、瞬間にぬけだせば、ぬけだせれば、それがトップだろうと考えているのだが、高校生あたりでは、その両方に秀でている、という、トップになかなかめぐりあえない。

平山という選手は、多聞、よこから出てくるボールに強いのではないか?

縦に出てくるボールなんかいまのフラット相手だと、そうは、かんたんに「出せない」「ぬけだせない」ということはいえそうだ。

市原の阿部あたりがその縦に走るボールをだすことを期待されているのか?
わからんが。

それからコーチ勉強しているひとたちに、誤った考えを言ってしまうのがいやだから、急いでいうけれど、相手が「ひいてしまえば」縦に走るボールを中央に、出し続けても、そうは、かんたんに、最後のシュートが決まるというのでもないのがサッカーというスポーツだ、だからそこらへんの「切り分け」という考え方を、自分などしつこく選手に理解させようとする。

流通経済柏、Bチームだして、関東大会に優勝したとか、まー確かに、3軍あたりでも、選手はしっかりしている。

その3軍か4軍か知らないが、日曜日にまた試合をした。
たちあがりいきなりこちらの、トップが、「縦にでてきたボールをシュートして」決めて、1-0。
このトップのこのプレイ見るだけでも楽しいわけだが、背は普通だから、横からはいるボールには無反応。

ということは、同じような、縦へのボールはさすがに前半相手も許さない。
だから、追加点はでない。
その点、山本だったら、いろいろなカード切れるじゃないか。
というのが自分の言い分。

後半たちあがり、相手の作戦が変更になって、こちらの守備が対応できず、あっというまに1―3、ハーフをとっかえて、守備をたてなおし、また攻撃し始めて、2-3まできたが、そこで終わった。

高校生わかっているようで、わかっていないで、その10分のあいだ、ぽか、をしている。

ただしそのぽかも修正可能だが、今の所、前半はサイド攻撃を(統一する)だから、ハーフの動き方もそのシナリオで統一、2トップの動きもそのシナリオで統一という、のを、後半は、「ハーフのゲーム」という言い方で、つなぎ、サッカーに変えるのがこのところの、試合のやりかたで、(うまくきているが)後半たちあがりは、前半の「まま」という考えもあるということか。

さて代表は、アジアカップ。
重慶は自分の記憶では、昔日本陸軍の航空隊が爆撃をしたところで当然反日感情がきついところであろう、で、そういうところで、サッカー選手はどういう態度をとるべきか?

ジーコ氏はまたとんちんかんなことをコメントしているのだが「ブーイングで4点とれるなら、もっとしてくれていい」と言ったそうである。

ジーコ氏が昔、日本軍が中国の人々を殺した、歴史などに無知であるのは、しかたがあるまい。
ただこう言うことは言えるのではないか?

ドイツ人だって、ユダヤ人殺したり、オランダ人殺したりして、で今にいたって、サッカーやりにその国にいったりしている、へたに政治的発言をすれば、どう好意的に言おうが、曲解されたり、歪曲されたり、では「黙っているにこしたことはない」というのが相場になっている。

だが協会の会長だとか監督だとかは、発言の機会もあろうし、理解されようと、されまいと、真摯な物言いすればいいだけだろう。

それでも、何も、改善しない、ということも含めて、それがこの世だから、そのこの世のうちの、敵地で試合をして、例えば、仮に中国と日本が試合したとして、そこでだれかが1-0にして、その後中国の五星紅旗をあやまって踏んだりしただけで、おそらく暴動が起こるでしょう、どっかの大学で、おばかな日本人留学生がなにかふざけて、卑猥な演劇しただけで、つるしあげくった事件がありました。それの数10倍の騒動になってしまうことでしょう。


だから、、だからこそ、日本スタンダードではなくて、殺伐とした世界、もっと殺気だっている世界の中で、争いを招かない存在として、機能するスタンダードのもちぬしであるようになってほしいわけです。

私の師匠のクラマーさんだったら、重慶にはいる前に、日本と中国の良いも悪いも、歴史を勉強したりして、選手にどうだこうだと言いそうです、サッカーでなくたって、バレーボールの松平さんも、東欧遠征の代表チームにそれぞれの当時の共産圏の国の政情やら歴史などを勉強させたというようなことを読んだりしました。

そういったことはコーチのマニュアルにかいてあるのではなく、けっきょくは
その人物の大志とか器量に依存するかのようです。

だから週間文春の、阿川佐和子対談でバレーの加藤陽一選手の言いたいことを、賛成、反対は別に、じっくり読むことをお奨めします。
いつも自分の言う、ジャパンドメスと、そうではない(スタンダードかどうかは別に)カルチャー、この二つの間で、 加藤選手、要はひきさかれているような気がしました。

日本的なことのすべてが、だめだ、無意味だ、そういうことではないでしょう、しかし、ジャパン・ドメスではうまく行かない、閉塞的である、ああだこうだというときに、横見れば、なにかうまくいっていそうな、カルチャーがあるというわけですが、そこは、自分は疑りぶかいから、「ふーん」とは思う。

ただひとつだけはっきりしているのは、いかにも日本という場にも、外国というものがどんどんはいってきているそして、「どうしたらよいか?今までのジャパンドメスを捨てて、なにか別な物に行こう、行きたい、しかし、ではどうしたらよいか?はかんたんにはわからない」という時代にわたしたちは生きているのだとは思います。

いつも例に出すのですが、田中真紀子さん、
アメリカに留学したりまでして、ジャパン・ドメスではない社会やカルチャーがあるのは百も承知はしている、しかし新潟の選挙ではご自分のことを「おらは、」というように言っていると。
つまり真紀子さんなどは、ジャパン・ドメスに身をまかせるしかない、と覚悟したのではないでしょうか?
そういう意味では加藤選手少し、国外のものへの、好みが勝っていて、日本というものがやむを得ず、持続させてきた、なにかを低評価というきらいありますが、まーそれはおいおいわかるでしょう。

ただ、自分の印象を短くいえば、バレーボールって、まだそんな感じなの?というぐらいです。
(この項終り)