「ぼろチーム」のコーチ

2003年7月23日(水)

朝の8時半に赤坂を出て、今回は中央道をから長野に回って、更埴から、関越にもどる感覚で、上田インターまで走った。

1230から前橋育英と練習ゲーム、グラウンド小さく、0-0だが評価対象とはいえない。
菅平も雨である。
今年は冷夏なのか。

7月22日(火)はボランテイアで、「たまにだけ」練習を見ているチームが正月予選で、1度は勝ったものの、2回戦で、負けてしまいました、ということになった。

うまく表現できないのだが、「ぼろチーム」を浮揚させるための「方法論」というようなまとめかたをして、その方法論だけを議論したら、多くのコーチは「無駄な」抵抗をしないですむのではないだろうか?

ぼろチームを浮揚させる、ということに意味があるとすれば、私の理解では「コーチが、自己鍛錬ができる」ということだけである。

ぼろチームを、いくら浮揚させようと思っても、映画の世界ではないのだから、ラストシーンで、チャンピオンには「なれるというのではない」

だが、本来なら、「グラウンドがあります」「ないです」「クラブハウスがあります」「ないです」「遠征用バスがあります」「ないです」「ウエイトトレーニングルームがあります」「ないです」「身体がひ弱な選手に栄養を供給できる、プログラムがあります」「ないです」等々の「リスト」というものがあって、当然なことがふたつある。

ひとつは、施設、スタッフが充分にいて、そしてナショナルレベルにいるチームの面倒を「見たい」というコーチのあたりまえの野心である
もうひとつは、施設もない、あるいは不充分、スタッフもいない、そしてチームのレベルは最悪、サッカー・ネーションとしては、貧弱なのだが、それが「世間の」あたりまえである。

だが、その悪いほうのチームを見るからこそ、「コーチが、おのれのスキルあるいは能力」として、身につけられる、という一面もあるわけだ。この場合は当然、コーチに期待されることが不当に、拡大されているわけだ。

だからその不当さを「言いたてても」世間はだれも相手にしてくれない。

一つの例として、仮に、ぼろチームを引きうけて、グラウンド「さがし」から始めたとして、で、結果はやはり「だめであった」としよう。
チームはそのぼろのまま残るわけである。

では、コーチはそこで傷つくのか?あるいはコーチの経歴で、その体験は不毛なのか?
私はそうは思わない。
ファーストクラスの航空券をもらえるコーチでさえ最初から、そうではなかったはずである。最初からファーストクラスの航空券はだれももらえない、それがこの世の鉄則であろう。
ぼろチームの浮揚の過程のなかで、コーチを超えた仕事を要求されたからといって、それに怒ることもなく学習していけることを喜べばよいだけであろう。

シュワルツネガーという映画スターの「わがままぶり」というのがよく週刊誌などにでてくる。いわく、ホテルのなかで数社のインタビューをこなさなければならぬ結果、へやから、へやへ、歩きたくない「から」台車を映画供給会社の者が用意してきて、彼が、そこに乗っかって、ホテルの廊下を社員が押していったとか、今度のターミネ‐ターの映画の宣伝でも、プライベートジェットを要求してきた、ホテルはスイートであるとかである、こういうことを「愚痴」めいていっている訳だが、それもまた「宣伝」くさい、傲慢というのは、どこまでを傲慢というか「その要求を主張してあたりまえじゃないか」というその線引き、けっこうむずかしい。
シュワルツネガーサイドにしてみれば、「ビッグ・スターを遇する」からには、「あたりまえじゃないか」と思っているだろう。そんなに「嫌なら」「要求に、ノーと言ってみなさい」というだろう、ノーと日本の供給会社が言ったら最後強烈な「しっぺがえし」がくることはだれでもわかっている。

ぼろチームを引き受けるときに、「あれがあったら、これがあったら」とそういう話しになるのは、見え見えだろう。
それらの「あれ、これ」のなかで結局「なにが、最低でも必要なものなのか?」そういうことでさえ、「ひきうけてみなければ」そういうことの答えがわからないものだ。
何が、最低条件か?といえば、それは11人の素材だというようなことを言えば、それはそのとおりなのだが、やはり、空理空論のたぐいだな、とおもう。
最低条件というのは、ストッパーひとり、ハーフひとり、フォワードひとり、ではないかと思える。
だからそれすら、「いない」というと、他の条件が仮に、有利であったとしても、この「ぼろの程度」というものはいささか絶望的だと言う気がする。
で、逆に、そこは「いる」というなら、強力チーム相手でも、一度なら勝てる、ということだと思う。
つまり弱者の闘いかたがあるということを言いたい。
わかりやすくいえば、ぼろチーム対象でも、練習では「サッカーを教えてやりたい」なぜなら、弱者の「いろいろな闘い方」それ自身はやはり、信じさせて、それを学ぶというところがむずかしい「から」である。
弱者の闘い方を納得させるというのも結構「たいへんだ」
また弱者の闘い方のための練習も、けっこう「暗い」ので、サッカーそのものが「内包」する、「愉しさ」というものの恩恵を若い選手に経験させないで「よいのかしら」というコーチの自問もある。

7月24日に、日本学園の実際の序列は、3軍と前橋育英の「公式試合にでられない、2,3年生」のチームとゲームをやった。
結果は、3点か4点か、こちらがとって、勝ちなのだが、ここではとくに、育英の選手のことにふれて、見たい。
彼等はいっしょうけんめいサッカーをやる、よく走る、ラインはフラット、プレスもかけにくる。
だがやはりどう観察しても、彼等にサッカー的な未来はないわけだ。
天下の育英でもそうなのである。
現場で、コーチが抱えている問題というのは、こういうように、現場にいなければわからない問題である。
自分がきょう話しているのは、この育英よりさらに「ぼろ」なチームのことを言っているのだが、まったく、そういうぼろチームで、「弱者のサッカー」をやらせるかどうか以前に、かれらに「サッカーをやる権利があるのかどうか」そこがむずかしい問題なのだ。
なぜなら「サッカーをやる権利」はある、とするしかないわけだから。

コーチの思惑だけのことをいうなら、自分の思いでは、ぼろチームでも、それをかりに浮揚させることができたらなにか発展がありそうなら、コーチはそれを引きうけるでよいだろう。
そういうぼろチームに「弱者の闘いかた」を強いて「サッカーをコーチしてますよ」という顔をされたら「困る」というより、正直にいえば、「おれは、サッカーのコーチで、サッカーを教えているつもりだ」というものからすれば、彼と我が、同じなのかという、歎きが「ある」かといってここらへんの呼吸は全部わかったうえで「弱者の闘い方を、やらせて、どこが悪いか」という指導者も立派なのである。

そこの線引きが整理されていないのに、議論しても、無意味であろう。
(この項終わり)