戦い方は無限

2004年7月16日(金)

誰でも思っている通り、今年は、はやくに夏が始まっている。

どこに試合をやりにいっても、ベンチは一応、屋根があれば屋根の下、木陰があれば、木の下なりに陣取るが、それでもグラウンドからの照り返しで、はやくも顔は火傷状態。

紫外線、からだにわるいよと、会うひとなりに、親切で言ってくれるが、元MEDICALでもあるわけで、それが有害なのはとっくにわかっているわけだが、UVカットのシールド(化学素材)商品にも信を、かならずしも置けないので、放置状態。

昨日は、下高井戸人工芝、で駒沢大学付属高校と朝の9時からゲーム、専門的に見ればむろん、互いに、欠点いろいろあるが、とりあえずは両軍、朝のからだがおきていない状態で80分、走りまわっていてスピード落ちないのだから、高校生のゲームとしては有料化してもよいくらいだ。

昨日は、北区の、北公園で、駿台と朝から、えんえん5―6時間ゲーム、昼に高校生が、牛丼べんとうをもってきてくれたので、暑い、スタンドで、食べる。

代表アンダー23の山本なんか、協会から80,000,000円もらって、澁谷の松涛に住んでいるっていうのだが、昼食はどこで食べているのかね?
優雅にイタリアレストランで「スタッフ」とサッカー、議論しながら、ランチ食べてほしいな。

だが、ぼろぼろになるまで、読んでいる(藤沢)秀行先生に言わせれば、「俺は楽しく囲碁をやっているんだ、楽しい囲碁をへぼだから、まだまだ修行しているんだ」「ごはんなんか、冷や飯でもありがたい、おかずが一品でもあればありがたい」と。

将棋の天才、羽生は、本番の前に、奥さんに、明日の朝食は、何時、何分にきっちりとこれとこれとを用意して、というそうだが、そのことを羽生から聞いた、同じく将棋の米長は、「羽生はさすがです、奥さんへのしつけが行き届いています」と言ったら、秀行先生にすかさず「そんなことはどうでもいいのだ、羽生はまだまだ修行が足りない」とぴっしと、やられてしまった。

わたしも、どちらかといえば、秀行先生の考えがわかる。

人間の生は限りあるが、碁の石の置き方は「無限なのだ」だから無限のきわみまで、有限の生を駆って行ってみたい、そこらへんが秀行先生の言いたいことではないだろうか?

サッカーも、そのはずである。
いや、ラグビーでも、野球でもみな同じであろう。
戦い方は無限にあり、一コーチとして、「手馴れた、戦法もむろんあるが」無限というものに接してみたいという思いである。
その場合、「めしのことなんか、言ってられるか?」ってなもんだ。

まったく見なかったけれど、ユーロの、ギリシャ優勝、すごいですね。

レアハーゲルが、ドイツ人が、(フラットで、ゾーンではなく)マンマークが、リスタート一発にかけた、サッカーがヨーロッパナンバー1になった、ということがね。

だってこの駒沢戦良いゲームであったが、前半相手のFKをきめられたとき、正直言えば、空中戦挑まれると、絶対的な支配を、うちの高校生は確保できない。

イタリアでも3部ぐらいのキーパーでも、クロスは「おいらの仕事」という感じで練習している。
極端にいえば、ストッパーの見切りが早い。「これは(高いクロスがはいったら)キーパーじゃないの」という判断が、早いということである。

ギリシャも長身選手ということでは、いくらでもいるので、レアハーゲル、まず守備の制空権「とった」のだろう。
あとは、昔、三菱のだれかから聞かされたが、元全日本代表、横山さん(キーパーでしたね)、とにかく、バックあるいは守備ハーフ「出て行くのを、嫌った」そうである。多聞それと同じだ。
将棋でいえば「穴熊」というの?

見ている分には、これだけつまらんサッカーもないので、でもそれが勝ってしまうのがサッカーというスポーツでもある、そう言うことは昔から、わかっているわけだ。

いや、自分でもまだ攻撃サッカー浸透させられない時期、2スイーパーなんて奇策、平気で使う。

レアハーゲルはラインのうしろに「ひとり、あまり」守備ハーフのうしろに「ひとり、あまり」なんてことやらせたらしいが、だれでも考えることは同じである。

駿台は、トップに3人置いてきた。
こちらの「ラインのまわし」が窮屈になることをおそらく、しかけてきたのだろう、以前にもよく練習試合やっているので。

次ぎに、ハーフにも、それでいて、相手の人数がいる。
つまり中盤でもほぼマンマークということ。
、では駿台の最終ラインはというと、こちらの2トップに2バックがやはりマンマークでついていて、キーパーがぺナから10メーター以上はなれて、この2ストッパーのカバーをやっているという、奇策である。

これをかっこうよく言いかえれば、「オールコートプレス」「マンマーク」「フラット」だがそんな言葉はどうでもよい。

これへの対策「馬鹿馬鹿しくて、かんがえたくないのだが」
ハーフタイムに、こちらのストッパーのひとりは(言い方として)キーパーとならぶほど、さがれと、(だってあいてが2ストッパーに2トップでマークしてくるので、ゆっくりとボールキープできないという感じで、日学縦に蹴っ飛ばしていたから、待て待て、そうじゃないだろうと、別な言いかたすれば、ストッパー縦にならんで、相手がどうでるかを見ろ、とした。

もうひとつは、サイドバックが味方のストッパーがボールをおちついて、キープ(できない)と言う意味で、苦しんでいるのに、あがって、ストッパーからのつなぎを期待しているから、「この低脳め」ということで、サイドをストッパーにつかせた。

つまりラインでキープできる陣形にした。

サイドがストッパーのそばにつくので、危なそうになれば、ストッパー蹴るか、サイドにほとんど無意味なパス送って、サイドが縦蹴れ、を担保してやって、そのうえで、「ねらって、相手の裏に蹴れ」である、
後半はこうして、一方的。
むろん勝ち。
ただこんな奇策を採用する相手に、勝っても無意味だ。
これも大人が選手をスポイルしているいつもの光景だろう。

自分も、最初は「コーチがテーマを選んで、そのテーマをやって見せて、で、あとは選手が、余計なことをやらないで、そのテーマに集中することを、求めるコーチではある」

しかし次ぎから次ぎへとテーマを変えて、いつのまにか、その選手が結果いろいろなことが「できる」という状態をねらいたいコーチでもある。

練習はだから毎日、毎日、ゲーム形式だが、毎日サッカーのやらせかたがちがう、選手には「極端」から「対極の極端」にしょっちゅう「ふれている」サッカーだとしている。
それで時々、極端を否定して、普通にサッカーやらせる。

プロ野球のコーチの高畠さんが亡くなった、このひとも、選手にファウルばっかり打たせたとか、落合にはボールの下、バットでこすって、逆スピンあたえて飛距離伸ばさせたとか、とにかくコーチの職人であったと言われている。

好いじゃないですか。

高畠さん最後の言葉が「無念」ということであったらしいが、まだまだ彼の場合は野球という広大無辺な「場」に自分のくふうを、加えたかったのでしょう。
生の終りでそれができなくなって「無念」となった、と信じたい。

下高井戸では、駒沢の女子高校生が、ポカリスエットなんか、もってきてくれて、先生に言われたのだろうが、そういうときに、その高校生なりの、家庭でのしつけとかが現われるというのは、この先も、かわらないでしょう。

駒沢は、前がかり。
グラウンドが人工芝なので、ボールがイレギュラーしないから、駒沢のまえがかりプレスに、こちらが、「プレスはずし」できていない、という感じは受けなかった、が、とりあえず、つないでも、どうしたらいいか選手がわかっていないので、「トップにぶつけろ」を指示、で、そのあとに、今度は微妙な相手の対応の変化を見て、またつなぎにもどせばいいのだが、ここがなかなかうまくいかない。

02年のフェリペも、ブラジルに伝統的なスロースタートではなく、3-5-2から縦への急襲をチームに要求した、と、わたしなんぞは、思っているのだが、とはいってもつながるところはつながって行くのは当然である。
なにしろ未熟対未熟というのがへぼ高校生同士のゲームだから、それを「ついて」むちゃくちゃな前線での守備を選手に強制するのが、今風のサッカーではないのと思っている。

目つぶって、相手がとびこんできたら、かわしたり、ファウル誘ったりというのが、わたしなんか今でもサッカーだと思っているわけだが、それが「できない」こちらの未熟
を、相手が、これそ、モダンサッカーだと思いこんで、目つぶって、ついてくるのが高校サッカーだ。
だから、相手の、サッカーではない、サッカーをとりあえず「押しとどめる」というか
相手が「こんなはずではないぞ」というところにもっていかないと、理屈で相手を凌駕するわけにはいかない。

0-1で前半だが後半はこちらが、相手のラインをどんどん切り裂いて、3-1でもおかしくないほどなのだが、実際は、1-2で終った。
まだ暑さに負けている状態ともいえる。
それはしかたがない。例年なら、この時期まだ梅雨でしとしと、寒い日もあるわけだから。

きょうは、東伏見に行って早稲田の3軍あたりとゲーム。
(この項終り)