プレスはずしの攻撃

2003年7月12日(土)

1学期の期末試験が終わって、もうサッカー的には「夏休み」である。ここから50日、ほぼ休みは「ない」毎年のことだが、「ここを」乗りきれるのだろうか?と自問したりする。

いや乗り切れはするし、食も旺盛である、ただ暑い夏の灼熱の太陽のしたでは、取り組ませるはずのサッカー「ではない」乱暴なサッカーになったときに、コーチも呆然としていて、チェックできないというようなこともある。

日本学園は、総体都大会で駒沢大学付属と1回戦でひきわけPK負けの結果、シードとれずに、また8月最初の週のローカル大会からはいあがらなければならない、選手には、今から、そこまでがひとつのステージだとそういう言い方をしてある。まー勝負のことだからげたをはくまでわからないものの、よこされた組み合わせ表を見る限り、このステージの次に、都大会のステージがあって、そこまでは読める。

つまりは、都大会は秋だから、この8月のローカル大会で、仮に、勝ちあがるのに、タフな相手を負かさなければならぬとき、「耐暑」ということにとりくまなければならないわけで、そこをあまり神経質に考えなくてすみそうだというのが、大きい。

チームの課題としては、あたりまえのところにきているが、
攻撃では、
1) 前をむかしてくれないとき、地帯での、判断のはやさ
2) 前をむけたときに、でもいかに判断をはやくしていくか
3) 前をむけたときの、場面での、タイミングのくふう
守備では
1) 攻撃でポジションチェンジを追及していくので、守備のほうは当たり前だが、守備につごうのよいバランスは、崩しがちになるだろう、それをいかに最少のマイナスにしていくか
と、この4テーマで、このステージをまかなっていく。
判断が「はやくなれば」基本的には、相手のプレスにかこまれもしないだろう、相手のラインをいかに崩すかということでも、しょせんは判断が早いというところを追求しなければ、すべては絵に描いたもちだろう。
また判断をはやくして、ボールの走らせ方はどうなるかといえば、緩急があるかといえば、そうは「ならない」のではないかと思っている。

つまりジーコ式にはならないだろうね、という思いである。
今、故意に、「ハーフ、トップ」ともに「走り出しのはやさ」を強調して、ゲームをやらせている必然的に、ラインでつないだり、ラインの選手が長く考えたり、そういうことを「マイナス」だとして極力やめろ、というところにもってこようとしている。
理由はかんたんで、どうしても、ラインでつなぎきれないからというだけ。

こちらのラインに、相手が執拗にプレスをかけてくるか?それともラインには「やらせてくれるか?」そこは、チーム、チームの選択なのだが、執拗にプレスをかけられて、ボールロストをこの期に及んで、してしまう、やつを使わなければならないからには、ラインキープではない、というように考えるのが、高校年代のコーチの「おもしろくない」ところであろう。

なぜ2年半近くも練習してきて、キープできないか?むろん今の、プレスのかけかたの、執拗さは相手の高校生、サッカーというスポーツをやっているのではなく、プレスというスポーツをやっているとからかわれようが、確かに強烈で、それに対して、「逆を」個人でとれる自信がなければ、(要は、未熟だから)こちらのゴールまえで(つまり彼等の好きな、高いところでのプレスが成功して)で、こちらは、(失点はいつもみじめなものだが)、とりわけ、「じぶんたちがバカに見える」失点をして、ということになる。

むろん、いちばん強烈なプレスをかけてくるチームとやると、自分がいつもいうプレスはずし、がまったく効を奏しないのではなく、はずしまくって、いくというところまではチームのレベルは、きたのだが、肝心なところで、ミスが出ると、そういう意味である。

5回のうち4回はプレスはずしをして、そのうちに、1-0、2-0としていけばよいが、0-0で緊張感あるモードの下で、ベンチは「こう攻撃してくれれば、相手は崩れる」と観察があって、で、その崩れるための基本は、ラインキープから、どこか相手がいやがる、エリアにボールをもっていけということにしょせんなるのだろうが、そのコマンドを出したい、5回目のプレスにミスがでれば、スコアは0-1というそういうことである。

これはどこかで最近見たゲームの解説でもある、そう宮本のあのミス。

昨日、荻窪で呑んで、赤坂にもどった、道ばたの客引き男に乗せられて、ある店にはいったら、そこでそばについた姉ちゃんが「あたしは、ジーコよりトルシェが好きだ」と言いきった。「おいおい」とはいわないで「で、その心は?」ときいたら、だってトルシェのほうが「勝てそうだもん」という、うーん、その通りかもしれない。

そこが、最大のなぞと言う意味で、私などは、やはりジーコにがんばってもらいたいわけだ。つまり攻撃を強調して、なお「勝つ」というそちらを選びたいからには。

攻撃のほうからサッカーを考えれば、守備というのは、攻撃が失敗して、相手が攻撃してくるから、それを守るというのが、古典だというのが、ジーコである。

相手の攻撃を守備でまともにとめられないから、そこはラインのあげさげというよりもっぱら「あげ」で、要領よく守れという破天荒だったのがトルシェであるさらに、ボールをつないでいっても、日本は負けるのだから、相手のゴールに近いところで「とれ」(とれるわきゃねーだろう)と思うのだが、「あたしはフォワードだ」というプライドなんかもってるやつは、使わないで、労働者みたいな、鈴木を採用したり、稲本にしても、パスを構成するというより、相手の「あがりめ」をつぶしたら、それがチャンスだろう(確かにそれはいえるものの、毎度、毎度それだけでは、つぶされる側のあがりめも、プロならばくふうしてくる)というアジにのっかって、プレイしたら、ワールドカップで2ゴールもあげられたのでアーセナルに呼ばれたものの、ワールドカップはいってみれば短期決戦、プレミアであれ、どこであれ、リーグというのは、長丁場、また大衆にアピールするのに何が鍵かといえば、やはり普通にサッカーをしてそのなかで、「冴えを」見せるというなら、稲本の今の、くすぶりも、わかる。

攻撃しているときに「も」守備のこと考えろ、というわかったようなわからないようなことをいうひともいるが、攻撃しているときに、守備のこと「考えさせたくない」というのが、判りやすく言えば、自分の原点でもある。

その考え方でまちがってはいないのだろうが、また先ほどの例と同じで、90分のうち80分うまくはいく、しかしどこか一瞬で、ミスすれば、0-1という、そのところを「どうしていくのか」そこで苦しむほうが、自分は好きなので、苦しんでいるわけだが、間違えても、ジーコが、勝たんがために、きょうからトルシェ流いくぞ、とは、それはないだろう、それでいて、ペレだ、エジムンドだ、ロマーリオだ、ロナウドだという偉大なフォワードは、「06年の予選前にでてこないことだけは、確実で」だからこそ「さージーコどうするのか?」どこでトルシェの呪いをぶちやぶるのか?切実にウオッチしていきたいわけである。
(この項終わり)