日本国サッカーアイデアの、日本語表現

2007年7月09日(月)


テレビで、日本対カタールを見た。

前半、カタールは「守備開始ライン」をずいぶん低くして、推定だが、カタール自陣のセンターサークル接線ぐらいじゃないのか?

日本はジーコのころからのことで、それに対して、行け行けなんてやらないで、まーそれをポゼッションサッカーだといえば、そうなのかもしれないが、ボールをとられる危険を回避して、つないだ。

相手がカタールでなくても「ひけば」必然で、日本は、いわゆる中盤ではボールを持てる。

カタールの攻撃は、これも必然で、カタール陣内の低いところで、日本からボールをとるわけだから、さーどうやって、守備→攻撃の切り替えを、やるのだろうかと見ていたら、そのセンターフォワードにぶつけて、ということらしい、だが、それに対しては「あべ」だ「なかざわ」だが、私の言う、ハーフライン上の、守備で、あたりにいって、容易に、カタールの「攻めあがり」を可能にしなかった。

だから前半を見る限りでは、2006年のワールドカップ予選、日本対北朝鮮みたいで、ああ北朝鮮、攻撃はできないねというそういう感じであった。しかし「ひかれたら」つなげるが、得点チャンスをどう創るのか?そこにジーコではないオシム氏の「くふうが」あるというように本人が言っているのではなくて、メデイアが、そういうように誤解しているのか、理解しているのか、こちらに伝わってきているので、目を凝らしてみたが、ジーコのころとおなじように見えた。

選手はかわらないしね。

それに、相手がひいてくることを、予想しての日本先発とくに1トップ「たかはら」でよかったの?いや高原悪いわけでなくて、日本1トップでやるぞと、したって、カタールみたいにひけば、まず、1トップのもつ、いろいろなメリットはなくなるだろうと思うのだが、案の定、平たい言葉で言えば「相手ライン」と勝負するというアイデアは、見えなかったというかわたしが見ることができなかったのか、ここらへんを想起するには06年のオーストラリア対日本の前半のオーストラリアの1トップによる攻撃のアイデアとは「なにか?」を考えればよいのではないか

無論オシム氏は、そのオーストラリアのたたかいかたもとっくに分析済みで、どこかで表現しているように、1トップで行くならその1トップ195センチなければというような言い方をしている。

それを自分なりに解釈すると、この日のカタールのように「ひいてしまう」相手ではなくて、あいてもまた、ラインを高くあげてきて、日本が守備→攻撃のきりかえをいかになさんかという問題を考えるに、トップにぶつけるだけが唯一の方法ではないが、それをしたときに、とにかく理屈を超えて、ぶつけたボールが簡単にまた跳ね返されれば、日本が攻めあがれないわけだから、そのことを、担保するためには、うまさよりも、またはやさよりも、強さだと乱暴に言えば、そうでないと、ならないということだと思える。

で、オーストラリア対日本にもどれば、オーストラリア1トップで前半、得点したわけではない、ただオーストラリアからしたら、前半、日本の自分たちと戦ってみての本当の感触わかないうちに、オーストラリアのほうから、いろいろしかけたら、かえって、日本にしかけかえされる、だから、1トップで、守備固めて、単純で、安全なサッカーをやろうとしたのだと思う、そして実際に前半で日本をいろいろ観察して、で、あの後半がきたわけだ。
あとはヒデイングの大脳からくりだされるアイデアに日本が、後半、翻弄されたのは言うまでもない。


そういう前半「だけ」というのでもないが、前半に、巨漢センターフォワードをおしたてて、「ハーフの知恵だ、小才だ」なんてものはそもそも信用しないで、そのかわり相手ラインのところで、守備の混乱を誘うと思ったときに、センターフォワードの好もしい、才能は「速ければそれにこしたことはない」「うまければそれにこしたことはない」しかしなによりも身体的な、頑健さであろうか、ストッパー大型化しているわけだし、なによりも単純に相手ラインの裏へスピード上げて走ったら、オフサイドをくらう(そういうランを実際にやって、それでオフサイドにとらわれるのではなくて)そもそもセンターフォワードが裏へ走ること自体無駄なことだと」思い込んでいるわけだ、
そして、それでもセンターフォワードを説得して裏へ走れとさせてもオフサイドをかいくぐって(そしたらいきなり1点だが)成功する確率はどのくらいになるのか、いくらかはわからないがまずは低いものになろう、だから前半に、センターフォワードをつかって、守備から攻撃にきりかえる頻度が頑強な巨漢フォワードをもちいて、かなりの確率で、可能ならそちらに行く、というだけだ。

浦和のワシントンは、そういうタイプであろうかと思っている。
それでいて、単に守備→攻撃切り替えができるセンターフォワードというだけでなくゴールを決めることができもするわけだから、それはいまの日本国においては、やはりいやなフォワードだということになろうか?

ただ、そうやって、仮に巨漢フォワードを得て相手がこちらに押し込んでくる(この日のカタールではなく)あるいは戦前評価で、最初から、こちらが「つなぎ」でコーチの大脳のありかたで勝ちたいと思うことが危険だというとき、前半はそれで、いわば守備的にも危なくない、攻撃もそうやってあいてを押し下げるから、それもあいまって、守備だけ守備だけ、の机上の空論で守り倒すというそういう非現実的なサッカーではなく、うまく試合をつくって「さー後半、選手は相互に疲労もする(のはサッカーしかたがない)そういうなかで、コーチの大脳、選手の大脳あるいはひらめきで、相手の弱点をひたすら攻撃するそういうサッカーをやりたいねというときに、巨漢フォワードでは「遅い」「一瞬の速さにかける」「シュートがへた」ということもあろうから、さーそこでどうするの?ということだろうか?

そのこたえは、今は書かない。

それでカタール戦の前半、日本はそういうことをしたかったのか?言葉で言えばポゼッションサッカーだろうが、それをしてオシム氏はそのことに、まんぞくしていたのか?

ハーフタイムの監督の言葉が外にもれてきたら「原語がどういうものかがわからない」が「見栄えのいいサッカーばかりやりやがって」みたいなものであったそうだ。

これを別な言い方をしたら、「ジーコの時代のサッカーをまだやっている」ということになるのでは、すると散々グラウンドでは、オシム氏の、教育が浸透しつつあるというマスコミ情報は、嘘であったのかということか、それともいつもの、面従腹背で、「オシムの言うことはすばらしい」などといいながら、まずは代表でポジションとって、その後試合に出たら「好きにやらせてください」ってなものか?
植木等的サッカー。

わからないが、オシム氏さぞや、頭にきていたろう。

前半の日本のサッカーをカタールがひいてしまったということもあって、昔ながらの表現で言えば「緩急」のないサッカーだと、あるいはもっと言えば「緩」だけのサッカーだといえるのだと思う。しかし緩急なる概念が、今のフラット、プラス、プレッシングそこにくわえて、この日のカタールのようにひいてしまう相手に、どうやるのか?
緩急を英語で訳すとどうなるのか?

たぶんそこが、一番の問題だと思える。

で英語に訳すと、緩急はわからないが、自分は、感覚的に選手に伝えたいので、Fast Break=速攻と、普通のプレイだというそういう言い方をしている。

つまり、頭の中身にはいつもフラットプラスプレッシングを攻撃でやつけるためには「どういうサッカーがあるのか」がある、それで自分の思いでは、その方法は「普通にサッカーやっていたら」間に合わないとでもいうのか?普通にやれば遅くなる。

だが同時に、じゃー速攻だといっても、普通のサッカーがどんどんうまくなっている今の選手に、どうしたら、普通にやったら、フラットの餌食、フラットの前でプレスにくる「守備しかできないハーフ(これは高校やら中学の話し)(さすがに代表はちがうのだろうが)、の餌食にならないサッカーをするのか?簡単には、答えが出ない。
あるいは選手がグラウンドでそういうプレイをしない。

この日の前半は、自分なりに言えば「普通のサッカー」オシム氏にすれば見栄えばかりが良いサッカー、彼はまたもっと「相手の弱点をつけ」ということも同時にいったそうだがではカタールの弱点とはなんであったのか?そこはこちらには開示されないだろうものの、サッカー一般で言えば、相手の弱点とは相手の裏にあるわけだから、さてこそ後半、なんで、カタールが突然カタール右サイドがいかにもすかすか状態になったのか、テレビではよくわからないが、日本左サイドからクロス、高原あわせて1-0になった。

テレビ朝日解説、松木、例によって、思い込んだことを、しつこくくりかえして、言う、で、うるさい、音は消して、後半を見た。

日本が先取点入れるとしたら、「やまぎし」かなと思っていた。

カタールのほうは、得点できる雰囲気なかった。
理由はすでにあげたとおり。
ひとつは、センターフォワード「すごい」といわれているが、別に、日本ゴールにせまってはきていないし、もうひとりの要警戒の10番も、自分に言わせれば、ただの小僧だ。

実際に悪質なタックルやって、そののちの試合の計算をどうするのか?かれらにしたらマイナス要素を自己演出していたが、顔見ればわかるんじゃないの?なまいきなくそがきだから挑発しておけば、もっとはやい時間でああなったろうに。

もう一人の危険牌、センターフォワード、あまり危険に見えなかったのだが、ただこの男要は南米人だから、なにか「たいしたピンチ(日本からしたら)ではない場面で、えっつというような演出をするのか、そのぐらいは思っていた。

あと5分のところで、「あべ」がそのセンターフォワードをショルダーで、吹き飛ばして、フリーキック、かべのあいだにいたカタール選手が、日本の壁をからだをよせて、あなあけたところに、その南米人が、シュートで、1-1そのあと、10番退場(こういうことがそのあとのカタール対ヴェトナムで、吉になったり、凶になったりするのだが、そのあと「オシムの弟子、はにゅう」がとびこんで、予想通りはずしたりで、結局、1-1のままであった。

予想通りというのは、羽生のアイデアはよいが、羽生にしても、ひっこんだ山岸にしても、確かに、スペースに飛び込んだり、裏へ抜け出したり、「おれはパスをだすぜ」という普通のサッカーばかりの「しゅんすけ」やら「同じく何で、ここにいるのかわからない」「なかむらけんご」よりも、危険なプレイ相手の嫌がるプレイは、している、だが、日本人的にはどういうわけか、ああいうプレイをするとあわてるのね。
それがなぜかはわからない。

しかし、はにゅうの最後の飛込みだって、方法的には何も文句はないのだが、つまりああすれば得点場面はつくれるわけだが、ではそこで動き方はオシム氏にとことんいわれて、ええかっこしの「俊介」に比べたら実際ほとんど英雄になるところであった「はにゅう」がなぜそうはならないのか?そこは、日本人論がでてくるところでおもしろいところであろう。

別に、悪い結果ではないのだから、よいのだが、オシム氏は怒っていた。

1-0は古典では、安全ではないわけだから、1-0を2-0にしにいくのだが、時間が迫れば逃げ切りということに選手の意識は行く。
たぶんまたぞろ、しゅんすけあたりが1-0のまま終えられなかったのはベンチからの明確な指示あるいは用兵の策のなさで、ああなったとぶちぶち言い出すんじゃないのか?

仮に、オシム氏が、あの時間帯でも2-0にするために攻撃させて守備のリスクを負ったのだからそれでいいんだといえば彼は立派な人格者である、そうではなくて選手を批判したら、ただの出稼ぎ外人ということだろう。

どちらにせよリーグ戦のいつもながらのポイント勘定、でいえば別にどうということのない結果であった。
(この項終わり)