湘南高校 鈴木先生

2003年7月04日(金)

7月02日、厚木のフットサル場に神奈川協会の鈴木先生にきてもらった。

自分が高校2年生で当時は藤沢県営サッカー場という日本一のグラウンドで、高校の大会をやることが多く、その日も、公式試合を終えて、村田譲二というセンターフォワードと腹がへったから「蕎麦でも食うべー」といって、藤沢橋のたもとの、そばやにはいったら、そこで鈴木先生とばったりあって、「なんだ、おまえらは」というところからのつきあいである。

恋愛日記に書いたのだが、高校2年の正月に大阪の選手権に神奈川代表ででて、1回戦で、上野工業かなんかに0-1で負けて、帰りの夜行の東海道線を待つ大阪駅のフォームでは、ほとんどの同級生にしてみたら「サッカーは終わったもの」という意識があったのだろう。そののち東大の医学部にいって脳外科のドクターになったキャプテン、吉田が、わたしに「相川は将来何になるのか?」と聞いたので「サッカーのコーチになる」と返したら、まわりが絶句していたのを昨日のように思いだす。

サッカーのコーチという「道」がどういうものか、どこの扉を叩けば、道が開けるか、そもそもそういうことが雲をつかむような時代の話しである。
だが、とりあえず、その大阪駅での「態度表明」も自分としては、みんなを「煙にまく」というようなこともあったので、態度確定というわけでもなかった、なかったからとりあえず、早稲田の学生になって、ごった煮早稲田のキャンパスに通う身となった。

今の時代は、ドッグイヤーで、知識もどんどん陳腐化していく、あるいは知識というものだけで人生を行く、というわけにはいかない、そういうことでは、早稲田なんかどうでもよいわけだ。それでも、もう少し、まともな知識伝達の「場」であるべきではなかろうかというのが、今の相川さんの感想である、それでも、要は、早稲田でなくても、どこも「今」の世界に追い付くだけのストラクチャーなどもっていなかったのである。

それはともかく、早稲田1年の秋に、学費値上げに反対して、全学ストライキということになった、そのときはおもしろがって、クラスの委員を沖縄からきた、伊波というやつといっしょにやっていたのだが、そんなことをやるやつはいなかったから、二人でやっていただけで、革マルだ、社青同だと要はマルクスの徒を表明して、職業的革命家と自称する連中が跋扈する早稲田のことだから、たちまち、クラス決議で、ストライキになった。

そういうことに同調する気持ちの背後には、今で言えば、「不満」というものがあったわけだ、しかし学校への不満だけでなく、「こんな生き方でよいのか」という「誰にぶつけたところで、実は他人は答えてくれない」名前をつければ、人の生がわからない、という苛立ちもミックスしているから、「どうしたら、満足できるか」ということが、わからなかった状況である。

どちらにせよ、今なら「バカかおまえら」とでも言うしかない、そのストライキも終わって、自分はサッカーにもどろうとした。自分の従兄弟などは、同じ年齢でやはり千葉高校でサッカーをやって、東大にはいって、安田講堂にたてこもり、最後まで、たてこもって、と志をつらぬいたわけだが、自分は、その頃からでは「こころざし」というものを「どう考えるか」長い旅にたったようなものである。

つまり軽薄ではないかと言われればそのとおりだが、その当時の自分に「こころざし」というものはなかった。

大阪駅で「深く考えずに、コーチになる」といったその言葉のとおりの生き方を意識して、しかしかわらず、道がどこにあるのか、わからない状況である。
そこで、まず和歌山の新宮で総体が開催されるので、自分で夜行を乗り継ぎ、新宮駅におりた。駅前旅館を訪ねて、西日がきつい、へやを確保した。試合を見に行った。浦和南が強かった時代である。

夜、旅館のへやがあまりに暑い(クーラーなどない)ので、ふらっと、ここなら安そうな、居酒屋にはいった、そしたらそこに鈴木先生がはいってきてまたもや「なんだ、おまえは」となったわけである。

これらはみんな本当の話である。

むろん相川不肖の弟子である。
湘南高校のサッカー部は岩淵先生→鈴木先生→、でそのさきを、自分と同年代で山田の仁ちゃんというのに、教育大学へ行かせて、後継者にする予定が、仁ちゃんは、道をまちがえたというか、本態にもどったというか、サッカーの指導者にはならなかった。
「おまえ今から教員資格をとって湘南にこい」ということなども言われた、ありがたい話しだが、コーチに「なりたかった」ので、結局はお断りしたことなどもあった。

だがどういうことであれ、サッカーの弟子なのだから、弟子は師を、というところで、相川さんも日本人というわけだ。
その鈴木先生から、舞岡中の監督であった、井上先生が今、死の床にあるという話を聞かされた。
井上先生は舞岡中時代に、奥寺、だ、死んだ麻田、高林だを鍛えた、名指導者である。

その井上千尋先生が肝臓を病んでということである。酒は確か、呑まなかった先生なのだが、「はてな?」である。

ボールに空気をめいっぱいいれて、選手にインステップキックを「びしっと」蹴らせることが好きな先生であった。ちょっとふらふらしている(早野なんかが右代表で)けれど、センスはありそうなやつが好きな相川さんだが、先生の目からすれば気に食わないので、それとなく「あれはだめですよ」とアドバイスを受けた。
フラットだ、なんだという以前から、サッカーは要は「パワープレイを前面に押し立てくる指導者」対「少しはこぎれいなサッカーもしてみたい」という指導者の永遠の「押し相撲」だというのが、日本の(世界は知らないので)サッカーの構図だとじぶんなど思っている。

どちらのタイプに自分を位置つけるか?
それは自由だろう、
負ければどちらにせよ、黒白がつく、そういう世界だから「勝った奴が、良いサッカーをしたので」「良いサッカーをすれば勝てる」ではないとしたい。

ジーコとトルシェ、どちらが正しいですか?という設問は無意味だろう。
ジーコではドイツワールドカップの予選通過が「むずかしそう」というあるいは「いけそうだ」というそのぎりぎりの判断「いつするのか?」そこだけが今後の問題である。
ただワールドカップに出る前から、サッカーを支えてこられた井上先生のような存在を知るがゆえに、あえていえば、ジーコが仮に「へたをこいたとしても」だからどうしたということである。
(この項終わり)