ワールドカップ2006ベスト4確定


2006年7月3日(月)


宴は、すぐにも終わるものと相場は決まっているから、もうベスト4が決まった、ワールドカップではある。

ブラジルが、負ける瞬間を見たいなと思って、朝わざわざ5時におきて、ぴょんぷ食堂(しったん)へいってビールを頼む。

このひとを見るといつも怪鳥(けちょう)という言葉を思い出す、フランスのアンリがそれこそ、鳥のごとく一閃跳躍して、ジダンのフリーキックにあわせたら、1-0になってあとはいかにフランスが守りきるか、というサッカーではおなじみの、モードになったが、このモードいつまでたっても、見ていてあきない。

ひとは、ロナウジーヨが、「あんなものではない」はずだろうから、ブラジル敗戦の因を彼に求めるということもあろうが、アトランタで、優勝しれたのに、「美しいサッカーをしない」ということで批判された、監督パレイラ、なにかその批判に、傷ついたのだろうか?
「よーし、今度は、美しく、勝つぞとか」

02年のブラジルには、06年のポルトガルの監督やっているフェリペがいるわけで、02年ではロナウドが「だれもとめられないほどに速く、うまく、強かった」ってこともあったろうが、ブラジルの、見てくれは、02年も06年も同じように見えるのだが、なにか、フェリペと、パレイラに、マネージメントの差異があるのだろうか?というようなことが、気になる、02年ではフェリペはイングランドを、やっぱりやつけて(ロナウジーニョが、イングランドのキーパー、シーマンが少しゴール前まえにかかりすぎたところに、頭上こされたっていうやつ)ロナウジーニョ02年でも十分、脅威の男であったから、それが06年「結果だせなかった」として、では「その理由は?」

ちょっと見せる、あるいは魅せる、サッカーにこだわっちまったのかい?てな事ぐらいしか思いつかないのだが。

アルゼンチン対ドイツも見た。

ブラジルが対フランスでも、「いつもどおりのブラジル」を見せつけて試合をプランしていたかのようだが、アルゼンチンは「アルゼンチンらしさ」捨てて、まるでヨーロッパのサッカーのような、試合をしているかのように、筆者には見えた。

そういうところに、わたしなど、間違っているのかもしれないが、サッカーの攻撃における「おごり」の問題を考えさせられる。

よいサッカー美しいサッカーを選手もできる能力を持ち、試合の最初から、自分たちが、ボールをほぼ支配し、パスにもなにかくふうがこめられ、ドリブルもおりまぜられて、「いつでもゴールわれそうだね、いまにも大量得点の、最初の1点がはいりそうだね」というパフォーマンスがまず立ち上がって、それでそのままスコアしてしまえば、よいのだが、相手の堅守、こちらの不運なんでも理由はよいが「美しいサッカーを」「長い時間やってしまう」としたとき、選手の心理になにかでてくるのではないか?

このままいけるな、というような、おごりといったら、オーバーだが。

むろんリーグで、引き分けが、OKならば、そのまま終わればよいわけだが、ワールドカップは本大会の予選リーグの第3番目「からは」要は、勝ち抜けていかないといけないわけだから、美しいサッカーを「やりぬいて」無事、勝ちました(というのが02年のブラジル)というのならそれはそれでOK、だが、この日のブラジルのように、先取点を、それも、結果的に「ブラジルにとってはいやな時間に」とられて、だからといって、がらりと自分たちのサッカーを「変える」というのでもなく、またなかでやっている選手たちも、0-1にはなったが、さりとて、押し込まれて大ピンチの連続というのではなくかわらず「おれたちのほうが、ボールスキルうまい」「ぺナの近くにはいっている」「シュートも撃っている」ってな試合内容になっているとき、それで1-1に最低追いつく「ために」じゃーどうするのか?

そここそが、コーチが一番脳髄をしぼるところではないだろうか?
いや、試合中もそうだが、試合前の準備段階でも。

アルゼンチンは「だから?」と勝手に相川思うのだが、ベンチは、対ドイツ「おまえたちができる、美しいサッカーを封印して」最初から、勝ちにこだわる、テンポのはやい、ためなど考えない、サッカーを強いたのかもしれない。

なぜなら、美しいサッカーをやって、試合中、齟齬きたした、0-1になった、それを美しいサッカーこだわりながら、1-1にもっていける「才能」というのもあることはあるわけだから、たとえば全盛期のマラドーナのように。

しかし、平常なら「うまい」サッカーをやって、美しいサッカーをやれて、しかし、ある試合で、突如、0-1で、リードされる、それを
1-1に追いつくという、いってみれば、そのテーマもサッカー選手が、本来は、「わかっていますよ、コーチ」と選手が、知っているべき、ことなのだが、そこのところで、強いパーソナリテーをオーラのようにふりまく選手が、そうはいないのである。

言い方おかしいかもしれないがだから「最初から相手をぶん投げる柔道選手ではなくて」「一度、相手にたたきつけられたあとは、妙に、攻めていく」そういう選手のような存在。そこにいたれば美しさなど、一応どうでもよろしい。
一言で言えば、闘将というキャラクターであろうか。

美しいサッカーをやることもできて、0-1になってしまったら、いきなり豹変して、闘将になっていくというようには、そうは問屋がおろさない「がゆえに」チーム全体の試合のモードを変えてしまうというようなこともあるのではないか、だから、アルゼンチンがコーナーから1-0になったとき、ベンチは「しめこのうさぎ」だと思ったろう、でそこにたちはだかったのがクローゼ、だった、というのが、ここにくるまでのドイツのサッカーだとしか自分には、見えない。

そこへ行くと、イタリアは、なんだかんだといって、リッピのカテナチオ、もともとが、1-0上等のサッカーである。

イタリアがオーストラリアに1-0PKで勝った試合でも、イタリア人にしてみたら、0-0の試合を、ロスタイムで勝つ、ためには「あれを、つまり、シミュレーション」をやるしか他に、どんな手があるという発想に決まっているわけで、ある意味、闘将ではないが、「肝心な場所に」「行くんだ」ということのまともさということは熟知していると思える。


選手ジーコだって、当然、ここまで書いたような、サッカーの試合における、ある種の秘密というか、勝敗わけるこつというようなもの、熟知というか思考してはいただろう、だがやっぱり、黄金のカルテットとかいった、ジーコ、ファルカン、などが醸し出した、美しいサッカー「で」世界を制覇したいという夢に素朴に、いかれていたのだろうか?

日本はポスト・ワールドカップに向けて走りだしたのか?

いや、言葉は、楽だから、だれそれが「こうしろ、ああしろ」こうすべきであったと、このときとばかり、百家争論である。

やれ、だれが監督になってもよいから、「日本のスタイルを作れ」(風間氏)奥寺氏「イタリアは監督変わっても、カテナチオだ、日本も監督どうこうではなくて、」
二宮評論家「ジーコの前に、オシムであった、川渕さんやめるな」等々
なんだかよくわからないが、
ひとつだけ、大変よいアイデアを耳にしたので、それを書く。

J1、J2、JFLぐらい、どのチームでもよいから、週に一度のトライアルを実行しろ、と。

このアイデアはたいへんに優れている。
高校生、みんなプロにあこがれている、高校にはいったら、まずはだめだがかといって、クラブだって、いやいや針の穴にらくだを通すみたいなもんだ。日本中の次世代になう、ひとたちに夢を与えるというのなら、年齢制限なしの、トライアル制を、確立だろうね。
(この項終わり)