ワールドカップ検証 - ジーコの敗戦とファウルの判定

2006年6月26日(月)


日本の、ワールドカップはすでに終わった。

速報性??を誇る??コーチング日記のことである、いまさら、対オーストラリアだ、クロアチアだ、試合分析、報告しても、みなさんも脱力感のみあって、読む気も起きないでしょう。

この3ヶ月間、わたしのパソコンはダウンしていました。

パソコンもどってきましたがそのときには、すでにドイツ大会始まっていて、メデイアがいう、運命のブラジル戦にまで、きていたので、コーチング日記を起こすのは、いまさらねと、それで電波障害で、自宅では見られないので、赤坂ひとつ木の、漫画喫茶に、対ブラジル戦を見に行って、まーあたりまえのように負けて、すでに早朝、ひと気のないひとつ木を、とぼとぼ歩いてへやにもどっていったとき、昔、見た灰とダイヤモンド、という映画のシーンが思い出された。

映画、灰とダイヤモンドは、ハンガリーだったかポーランドだったか、共産主義独裁政に対して、テロリズムを実行せんとする、孤独な政治的青年の、煮詰まっていく、心理の内面と、それに比して、外の生活というか、社会は、別に、青年が危惧するような、崩壊を見せることなく、普通の生活の日々を、刻むというような、ことをいっている映画だとうろ覚えだが、そのなかに夜通し、行われる、ダンスパーテイが夜が明けて、終わり、しらけたダンスホールが、客も去って、掃除のおばさんしかいないような、フロアが静まり返って、いる場面が妙に記憶に残って、で、ひとつ木もそんな感じであった、というだけのことではある。

卑俗にいえば、美空ひばりのお祭りマンボのなかの、家を焼かれたおじさんとへそくり盗られたおばさんの、心象風景か?(逆であったら失礼)

いろいろなことを、いろいろなひとが言っていて、興味ぶかいこともあれば、あきらかに聞くような内容ではないのだが「なにか言わなきゃいけないから、言わん」というだけの、ようなこともある、ただ日本は自由な国のはずだから、言論はやはり自由なのだろう。

昨日、きょうサッカーが好きになった、どこかのおばさんでも、オーストラリア戦でのジーコの采配を批判するのも自由なのだろう。

ジーコというひとりの人物に、敗戦の責任をおしつけることはないのだが、すくなくとも弱小、住友金属を、強豪鹿島アントラーズにはした、人物ではある、そして、鹿島を医学の世界で言う、ジッツ(領土、領地)にしたから、ブラジルのジーコ人脈を形成するひとたちは、いろいろとジーコに便宜をはかってもらったことだろう。
そういえば「ベベト」などもやってきてはあっというまに去っていったこともあった。

それがいけないのではなくて、それで覇をとなえてこられたのだから、一応文句はない。

鹿島フロントのビジネス感覚であって、成功してきたといえる。そこへ今度は代表戦での、この失敗である。もっぱら、日本のサッカー環境にとって、ジーコの存在「いかがか」という視点で大半のことが語られるわけだが、鹿島と同じというか同じだが逆の、効果で、日本を、ジーコ人脈が牛耳る、機会は去ったかのように見える。

だから一部のブラジル人は怒っていることだろう。

日本というジッツを失った、どじなジーコのことを。

さて住友金属を、スキルフルで、戦術的にも、うまいチームに育てたジーコはなぜに、代表を、変えることはできなかったのだろうか?
鹿島で行った、チーム管理と違うチーム管理を代表で行ったとは、考えにくい。
どう考えてもね。

私など、オーストラリア戦の日本のチーム見ていて、なんか自信がかけらもない、新チームの高校生みたいな感触を得て、おれがおかしいのかなと、思っていたぐらいである。

思うに、この予選の、3戦がどうこうではなくて、準備の4年間で、選手が、確固たる、自信を深めて「きた」ということでないような、そんな気がした。

どの代表チームも、サッカー先進国であるかぎりは、準備にかける時間は、少ないであろう、後進国なら半年合宿だ、遠征だと(2002年のためには、韓国も、ジャパンもそれができた)のが、チーム準備の時間、やりかたは、ヨーロッパや南米と同じになり、単独チーム、クラブの過密スケジュールのあいまに、強化試合の2,3日前に召集、新聞によれば、体力をやって(どんなコーチでも、たった一日あるいは半日、体力れんしゅうをしたからといって体力がアップはしないということを知っている)あとはシュート練習、ミニゲームでというような、書かれかたから類推するだけだが、それでは鹿島のような、着実な向上はのぞめなかったではあろう。


ただし、だからジーコは許されるということはなくて、代表の監督であるからには、単独のチームで365日を、400日にするかのような方法論は、使えないことは、機知の条件だからといわれたら、かわらず、戦争法廷にひきだされるのは、必定ということはいえる。

時間の緊縮わくのなかで、日本はどうしたらよいのか?という答えは、ジーコも見出せなかったように見える。

単独チームではあるが、マンチェスターのファーガソンならチームの練習のほとんどはコーチにまかせて、いるかのようであるがだからといって、試合がおかしくなることもなく、世界トップをねらうのだが、ジャパンでは、そういうわけにはいかないのだ
ろう。

たらればではあるが、ジーコは毎日、毎日、日本にいて、高校の試合も、大学の試合もJ2の試合も「見なければならなかった」のである。
理屈を超えて、日本人は、そういうコーチを求めるからである、それだけのことであるのだが。

(日本の社会そのものが)個性を尊重する、というような構造になってもいなければ、そういう方向に向かって、本当に行こうとしているのか、そこらへんが不明なのに、ひとり代表の選手「だけ」が、個の判断を尊重されて、また個の自主による戦闘力を期待されても、本音は「どうかなー」ということであろう。

さて、ブラジル戦で、私の記憶に間違いなければ、ブラジルのベンチにはマイオ・ザガロが座っていたと見えるのだが、どうなのだろうか?過去に何度もブラジル代表を率いていた名コーチである。

別に、ただの物見遊山でチームに帯同しているとは思えないので、日本は、ザガロのペレがどうしたとかいう時代からの経験とも戦わなければ、ならなかったのであろう。

さて、コーチ商売の末席を汚している、自分などでも、ジーコのサッカーがだめであったと言い切れるのか?だめだとして、なにがいけなかったのか?どうすればよかったのか?そういうことを、考えるということ自体が、すでにワールドカップのあとの、モードにはいっているわけだが、無論多くの、ひとが、これまたいろいろなことを、言い出している。

それらひとつひとつを検証したいわけではないが、ひとつどうしても論じられないテーマがあって、それについて言及したい。

それは、審判における、身体コンタクトがファウルか、ファウルでないかの判定に、なにかジャパン・ドメスのそれと、よその国のそれとに、差があるのではないのかという、個人的な疑念である。

ポルトガル対オランダで、最初に赤切られた、コステーイニャは、2度目の黄色は、「ハンドをしようと」判定されて(ボールに実際は触らなかったように見えたが、確かに、手でとめにいこうと)して、そう見られて、2枚目の黄色、で、アウトまーそれ自体は、きびしくて、じゃーそれでいこうというのなら、問題ない。

同じことは、オランダが、ポルトガルに、ボールを返しておけばよかった状況に、デコが頭にきて、デッド・ボールをすぐに相手に返さなかった、で、赤だと、これも、なにか同じような、判定上での、同質性で、それがあっても、よろしいだろう。

それもルール違反なんだと言われたら、赤坂の街、明るいから、自転車無灯火で走っても警官につかまるケースで、俺をつかまえるなら、違法駐車のやくざつかまえろといいたいのだが、通じないのと同じである。

だからそういう系列の判定については、まったくコメントはないのだが、問題は、日本的な「からだをぶつけろ、腰をぶつけろ」というプレイは、ファウルを「とられるのではないのか?」ということになる。

誤解をおそれず言えば、ブラジルのタックルでもヨーロッパのタックルでも「足先」でくるというような気がしてならない、いやむろん足先できて、そのあと立ち足がいやらしく、ひざうらやら、アキレスやらすねに、ぶちあてられるのは知っている、だが足先では、力がボールにはいらないから、いっしょに腰でいけとか、からだごとダーッといけみたいな、日本人だとそれでわかる、タックルをまず、他の国の選手は嫌う、し、ファウルと判定されるのではないのか?

もし、自分の感ずるところが、正しければ、ジャパン・ドメスにおける、ファウルの判定も、それでいってもらわないと、誤解されやすい表現だが「足先でいって、かつボールに強くいける」というような、(単純にいえば、日本人にむかないのはわかっているのだが)そういう、ボールのとりかたを、教育していかなければならないのではないか?

対クロアチアで、宮本がファウルをとられた場面であるが、あれはファウルであろう、あきらかに、遅れて、かつ「からだから行った」ように見えたからである。しかしあの程度の、からだのぶつけかたは日本ではむしろ奨励されているような、気がするのだが、自分が間違っているのだろうか??

サッカーを経験したひとなら誰でも知っているのだが、タックルにいって、相手のひざやらなにやらが、こちらの腿にはいって、痛い思いを、子供のころから経験してくるわけである。

あれがあたりまえだと成長してくるのだが、はげしい肉弾戦だと、アナウンサーが絶叫する、試合でも、なにかボールへのタックルに日本をのぞいて、は万国共通の、考え方が、あるような気がしてならない。

それはルールでそういう考えにも、なってはいるのだが、「相手を傷つけないために、ひざやら、うちももにこちらの足をぶつけたらそれはサッカーにはならない」「こちらが自傷しないように、バランスをかいたり、いわゆる無理な体勢からボールにはいっていない」しかし見てくれとしては、えらい無理をした体勢で、猛烈に行っているように見えることはあるが、それはやはり本人のなかで、あたりにいってかえって、こちらが怪我をすることはないという、自覚があるものだと思える、そして、足(シューズの部分である)さきでは、強くボールをたたきにいくのだが、それ以外の部分が「からまれば、サッカーにはならないのだから」原則的にはそういうプレイは認められないというような、ことになろうか。

イタリア対オーストラリアでも、空中にボールがある場面ではまた違うのだが、足元にあるボールをとりにいくイタリアのバックは、いちいちからだをあてにいっているようにはどうしても見えないのである。

だからといって、ひ弱ではないわけで、カテナチオとはなにか?といって、わかったような感覚になってしまうのが、人間なのだが、わたしから見たら、イタリアの連中のボールをとりにいくときの、タイミングと読みがまず、すごいのではないか?だから、とりにいって、そのあとどちらのものでもない50%50%のボールというのが、グラウンダーではあまり、なくて「いけば、イタリアの、キープになる」そういうように見れば、ブラジルも、日本選手のボールに「行かないときは、行かない」がしかし行くときは、ほぼ、かれらがとってしまう。

そこが、不思議だと思ったら、あまりにも素朴すぎるのだろうか?

しかしさすがにシュートをふせぎにいくときは、たとえばオーストラリアが必死にからだをよせて、シュートを防ぐのだが、当然ボールをはねかえす、というだけのことになる、ボールがどこに転がるかは予測はできない。

どこで?とるかということを、グラウンドのどこでというのではなくて、相手の体勢とか、言葉で言えば「すき」(とはいえ、とんでもなくミスったトラップがすきになるというレベルではないわけだから)というような、とらえかたをしたら、その感性がなにか、違うような気がしてならないのだが。

それをもう少し言えば、相手がどんな技をかけて、ボールを動かし、タックルをかわしにかかっても、足とボールの位置関係で、ボールが足から逃げていくもちかたというものが瞬間的に、生まれるのが、ボールをわし掴みにはできないサッカーというスポーツではないだろうか?

大昔は、相手がインサイドでさわっている、ボールにこちらもインサイドで、あたるのをタックルだといっていた。

よく考えればわかるとおり、それでは相手がこちらのタックルにひるまなければ、ボールをはさんで足と足が押し合うだけのことで、ある、そうではなくてその前相手がどんなに華麗なフェイントをかけようが、タックルの足がボールにはいって、タックルする側のマイボールになるためには、相手の足が壁になっている状態でタックルをかけても、相手はひざをこわしてしまうかもしれないが、こちらも、ひざをこわして、で、ボールはどこに転がるかわからない、というようなことなるはずだが、その、ことを不思議に思わなければ、いつまでたっても、50%50%の状態が最初から最後まで続く、それがサッカーであるということになってしまうのだろうか?

高いところで守備だとか、囲んでとれだとか、それ自体悪くはないのだが、なにかそこへ行く前に、根底でちがうんじゃないのか?結局はボールのタッチにいつでも問題はもどっていくのだと、なぜならサッカーはボールゲームだから。

ワールドカップを見ても、そんなことしか思えない。
(この項終わり)