ジーコの監督手腕

2003年6月20日(金)

週間新潮の6月26日号に「誰も批判できない、悩める神様、ジーコの監督手腕」という、記事がでてしまった。
別に「誰も批判できない」ということは「ない」と私など思うわけだが、むろん「相川相手にはされない」ただ「あとだしじゃんけん」はしないぞという、自分の生きかただから、ジーコ登場のときから、「ちがうだろう」とはいっていた、ことを、このレポートの読者のかたなら、わかっていただけると思える。

この世の中のことがら、できごと、人の心の動きなどで、「ことさらにはげしく、自分が憎むものは」口説の徒の、ちょうちん記事だといったら、みなさんはどう思うか?

この世には、もっと過酷な犯罪もあれば、ひとの悪意もある、それらのほうが、憎しみの対象としては、いかにもふさわしい「のに」自分が嫌うのは、いわゆるジャーナリズムの阿呆たちだと、言っているわけだ、なんとなれば、犯罪も犯罪者も、あるいは陰謀をしかけて他人を潰しにかかったり、他人を虫けらのようにあつかうものも、その「のるか、そるか」の(犯罪)プランのなかで、(陰謀)プランのなかで、法律やら法律を執行する警察やら、陰謀のさきにある、反対勢力との力技の結果、自分が費えていくということがあるのだから、それがこの世だとは「思える」 しかしジャーナリズムのなかにいる、卑劣なものたちは、いつの場合にも、口をぬぐって、言いぬけていく、それが許されないと、私など思うものだ。

トルシェを「あがめた」やつらが、突如トルシェを「蛇蝎のごとく」言い出す。 ジーコを救世主のように言いたてたものが多分、このさきの全日本の迷走の果てに、ジーコをトリックスターとして扱って、王は死んだといいだすだろう。

もともと代表監督などというのは、いったい「なにができるのだろうか?」という、テーマを「ローカルアンドマイナーコーチ」は思う。

しかし、そういう懐疑をもつ相川だが、韓国を指揮したヒデイングには「しびれた」 あるいは、あのイングランドがなぜエリクソンを招請したかにも「しびれた」他方ボラマジックなる言葉もあるあのボラの中国が結局、勝てなかったことはその理由を知りたく思う。

しかしコーチとしては、やはりファーガソンが「長い、長い、長い(しつこくいう)時間をかけて、」マンチェスターをトップフォームに「もってくる」その手法、その熱の維持、どうやって、自分が、倦怠から逃れるのか?そのほうにどうしても興味がいくのである。

むろん同じことは、ベンゲルにもいえる。ファーガソンに比べれば「長い」時間をというぐらいだろうが、それでも時間をかけて「チームを変化させてしまう」そのことに興味がいくのである。

そういう単独チームについて、そのコーチの役割という、一番知りたいことに比べたら、代表監督が「どう準備し、どう指揮するか?」少し、「ちがうのではないか」という思いがある。そのうえでの代表監督への評価ではないかと思うわけだ。

この記事のなかの要旨は、ジーコの裏には川渕氏がいるので、批判できないということに尽きている。

川渕批判をできないのはだれかといえば、ジャーナリストたちだというわけだが、そもそもこの国では「ジャーナリスト」に期待は「ない」のだ、ということを、「わからせられない」のが相川さんのしゃくのたねだ。

ニクソンさんが大統領を棒にふった、ウオーターゲート事件で、ワシントンポストのジャーナリストが、とことんその謀略の暴露に走った、のは良く知られている。 なぜニクソン氏を、指弾したか?単純にいえば、そこにアンフェアーな謀議があったからか?しかしその謀議というのは、普通は、国家の維持のために、いつでもどこでもあって、いったいどこで「線をひくのか?」そこのむずかしさというものがあるではないか?
それでもアメリカのジャーナリストは「やった」
だからといって、日本のジャーナリストに日本人期待しない。
赤坂の衆議院宿舎が部屋のまえにあるので、ときおり新聞記者がはっているが、植えこみに、平気で立ち小便をするようなやつらである。

川渕さんがジーコを指名した理由というのもよくわかるような気がする。

推定だが、やはり2002年の全日本を、川渕さんも「見て」このさき「どこへ、行くべきか?」と考えたのだろう、その答えは、サッカーの場合常に、「個人のスキルアップ」でしかないということであったろう、それで、スキルなら、ブラジル、ブラジルなら、ジーコというように結びついたのではないか?わからんが。

ここを批判してかつでは、正しい選択はなにかというのも簡単だが、それは言わない。

いわく、「代表は完成した選手をいかに、チームとして、機能させ、相手をたたきつぶすことを、目的にある」代表を「ひきいる」ということはそういうオペレーションをやるということだということに、尽きるだろうが、このことが決定律で「ある」わけでもないのが、日本という国だろう、なぜって、トルシェのときには例えば釜本さんが、テレビにでて、「なぜトルシェではいけないか?」それは「選手を育てないからだ」というようなことを言っていたわけだ、杉山さんも「わたしらのころは、クラマーさんに居残りでいかに、クロスあげて、シュートといったいわば、レベルアップの練習をいっぱいやった(のに、トルシェ日本では)ラインのあげさげなんてことをやって、ばかりだと、これまたコメントしていた。

つまり、代表でも「個人のレベルアップ」という目標は追及されなければ「ならぬ」というテーマが、日本協会のなかで、信じられている、というそこがポイントだ。

一方職業コーチというのは、「それは単独チームでやるんだ」と言う。

職業コーチは、3連敗すると、代わりのコーチリストをクラブマネジャーが検討し始めることを知っているから、大人のチームを率いるなら、「勝利至上主義」だ、しかし、自分がジュニア・ユースやらユースを率いているときは、もっともかんたんに言えば「おのれをクラブへの盾にして、個人をレベルアップさせる」そういうものだと自分は思っている。

さて、どうでもよいジャーナリズムが適当につまんで、もっともらしく書いてある記事を追って見よう。
● 「選手の個性を生かす」という方針は、今や「戦略なき難破船」と揶揄されている始末
○戦略ない、のは日本の特徴でしょう。日本の社会でなにかといえば「戦略がない」とい出だすのはジャーナリズムの常套的言い回しだ。さらにいえば、南米の人間に、戦略なんてことを求めるのは、それはおかしい。2002のブラジルに戦略の「におい」を感じましたか?
● 監督の目指すサッカーがわからずいまだに困惑している選手は少なくない。稲本、中田浩といった中堅の選手でさえ細かい戦術の指示が欲しい
○ 「ここがほんとうに、こいつらプロか?と」つっこみをいれたくなるところでしょう。自由にやれ、と仮に言われているなら「そうやってしまえばよい」韓国戦で右を突破された、鹿島の、名良橋なんかロッカールームで「なぐりつけるか」「こいつとはやってられない」とグラウンドをでてきてしまえばいいわけだ。
● 鈴木良平がまた危ないことを言っているのだが「管理型と自由放任型というタイプ分けでいうと今のサッカーは管理型です。」だって、
○ おいおい、ちがうだろう。スポーツも人間の行為だから、かならずXX式とXX式が、「われこそ優位にたつ」といってぶつかるのが、事実だろう。なにかいトルコは管理型だから日本のトルシェ式管理サッカーに勝ったのかい?なかでサッカーやってる選手に喜びがなければ、しょせん、チームは機能はしない、チームワークを強調すれば当然外見は管理サッカーに見える、しかしそれでも選手が喜べるなにかがチームになければ、選手も喜ばない、見ている観客も喜ばない。

他方、自由放任という言葉をつかえば、いかにもそこに「なにもないかのように印象させる、悪意が感じられる」どんなに守備がこのレポートで指摘しているように、組織化が先鋭になっても、その守備に対抗して、うちかつには、組織の手前の段階で、個人のスキルというものがもっと煮詰められなければいけないというだけだろう。野球と比較してもおかしいが、管理野球の野村も阪神では結果を出せなかった。星野はそこをどうしたのか、より「管理」を強行したのか?そうではなく強い個性をつれてきたのだろう、そしてそれを「放任しているのか?」そうは見えない、だからこういう二分法では、ちがうわけで、現場はみんなそこでバランスをとっているわけである。

なんにしても、この少子化の時代に、どこの学校もサッカー部入部者は、雲霞のごとくである。それもこれも2002だろう。この機運を感じなければ「経営者」ではないだろう。マネジャー、川渕さんの腕は「そこで働くべき」であって、仮に、ジーコではもりさがる

、ということのなにかきっかけを見出したら、「電撃解任」もあるであろう。そのきっかけを、ひゃひやしながら、センサーしているのが協会会長のあるべき姿であろう。
(この項終わり)