マスメデイア

2003年6月11日(水)

マスメデイアというものは、この世界でどれだけの影響力をもっているのだろうか?

そのなかに働く人達は、自己卑下やら、自己否定は普通は「しない」のだから、マスメデイアの存在理由とか、果たすべき機能とか、プラス面をいうだろう。

マスメデイアの影響力の議論はおいておいて、実際に、こちら側は、例えば日本テレビの社長の顔を見るのでもなければ、朝日新聞がどうできるかのプロセスを知るわけでもなく、氏名が公表されているかどうかはべつに、「ある人の」「文章」を読んだり、タレントの顔やら歌、踊り、コメントを見たり、聞いたり、ということをしているわけだ。

たいへんに議論を矮小化すれば「こちら側」からは、その「むこうから、でてくる(それを情報といってよいのか?わからないけれど)ああだこうだ」を「信じてよいのかどうか?私が生きている日常のなかで、それとなくか、堂々とかは別に、そのむこうからでてくるXXをくりこんでよいのか?」ということだろうなと言う気がする、死んだナンシー関という評論家をほめる人が多いけれど、また確かに鋭くテレビの番組のありかたやら、タレントのふるまいを批評はしたろうが、日本人はほんとうに、たとえばスマップがどうしたこうしたを、日常のなかで、話さなくてはいけないのかしら?という思いをぶつけたら、彼女も困ったことになったろう、なにごとも「需要」があるから、「供給されていく」わけだ。

ナンシー関を読んで、「快適」になる、はずの人もいるから、ナンシー関が流通したということはよく理解できるわけだが、ナンシー関だけでなくテレビそのものを無視して、生きていく人にしてみたら、そこは飛ばす。
ヴァーチャルなものはいくらでも、はてしのない議論が「できる」商売としてのマスメデイア、ヴァーチャルなものを、さらにヴァーチャル加工して企業が成り立つと見るからだ。

松木安太郎と中西が、1―4の敗北について、テレビで対話していた、(実際には、松木が、この男特有の、脳天気な楽観論を吹きまくっていた、だけだが)それは、良くわかるものの、はからずも、中西の限界がでてきてしまった。
それは、中西からすれば、松木も先輩である、なにか中西のほうが、もっと言いたいことがあったような、口ぶりだけれど、「先輩松木に遠慮して」「中西のコメントはださなかった」というように見えた。

おいおい、中西「それではまずいんじゃないの?」というのは、サッカーをやってきた、連中で、今マスメデイアのなかで露出しているひとたちは「このままメデイアのなかで、生きるという決意をもってもらいたいからである」「いつの日か、また現場にもどろうというなら、先輩にごまのひとつもするというのはわかる」だが、サッカー解説者というのが職業に、なるのかならないのかわからないけれど、またそれはなにかは別に、その解説者として「しっかり見識を披露してくれ」と誰でも思うだろうに。
そういう見方からすれば、先輩松木をたてつつも、評論家かコメンテーターか知らぬが、「中西さんよ、君の言うことは、言わねばならないだろうに」

それで、中西・松木がなにを言おうが、相川さんは、それは無視である、死ぬまで語っていろだ。だって私はすくなくとも、彼等に影響はされない。
それでも、一般ピープルは松木に影響されるのだろうか?
影響されて「どうだというのか?」
心配はないようには思える。

ただ、ジーコを攻撃しだしたのか、日本代表を攻撃しだしたのか、ジーコと代表を攻撃しだしたのか?そこらへんがわからないが、マス・メデイアのいくつかに「批判もでてきたわけである」そしてそういうときに、だいたいはセルジオさんあたりが、さーなんといったらよいか、流れを作るような気がする、今回セルジオさんはまだ、ジーコを批判開始ではなさそうだ。

ただし、キーワードで、ジーコさんには「理想と現実」のギャップがあるのではないかというようなことを言い始めた、たぶん、凡百の解説者、評論家は多かれ少なかれ、このキーワードで、論戦といえばまだよいが「おしゃべり」を始めるだろう、もう始まっているか?

それに対したわけではないだろうが、ジーコがまたテレビにでてきて、「机のうえでのプランなど、なんにも役に立たない、日本人は行動してみて、だめなら変えるというようにはしない、リスクをとらない、」「だからだめなんだ」と(むろんポルトガル語で、言ってそれをだれかが通訳したのだから、原語はどうかはわからないものの)これはどう考えても、日本人への侮辱ではないのか?

もうひとつここでいう理想とは、セルジオさんが指摘するまでもなく、サッカー、グラウンドの上で、「自分のアイデアでやるものだ」というジーコの方針(これ自体はしごくまっとうである)それに対して、ここでいう現実とは「今まではどちらかといえば、規律や組織に個を、おしこんできて、そういう集団の力で、やってきた」「ので」「日本人は、不安を感じるし、またどうしてよいかわからないのだ」というもっともらしい議論がたちあがりつつあるということも問題である。
このような「現実」認識というのは、乱暴すぎて、ほとんど嘘はったりのたぐいである。

もしこれが本当なら、では仮に代表レベルであってもよいから、岡田さんでも加茂さんでも、呼んで来て、「いかがですか?ジーコさんがああ言ってますが、なにかコメント?」というようになるのがジャーナリズムであろう。

あるいはJでも、高校でもどこでも、いやしくも指導者というなら、このジーコの激と、それと区別して、まわりのちょうちん持ちの「嘘」の議論に、おのれのポリシーを立てておくべきだろう。

なぜ嘘の議論と、私は言うのか?
いろいろ言える。
おおやけの警察官が、ストリートチュルドレンを、殺していくような国であるブラジルである。
勇気とか、侠気とかいうことが「でたほうが、確かにサッカーはよろしい」しかし、少しタックルを受けると、やたらに相手をぶんなぐるのが美風であるかのようなブラジルである、ジーコ自身も、PKのボールにつばをはいた、ああいうことをするということが、マッチョであるということなのだろうか。

400年前には、日本人は、ほんの少し面子を犯されたら、相手を切り殺す国であったわけだ。

そのDNAが滅びたわけではない。どの民族にも、殺戮やら、相手を圧殺する暴力の気風が美風であるとされた日々はあったわけであろう。
ただそののちの「人間のかろうじての、くふうから」英語でいえばBe Niceでなければ、という私に言わせれば、目標値がこの世界で議論をふっかけられない価値として、あるなかで、スポーツもあるのであろう。
そういうことを無視はできない。
現在の日本人の「個」のありかたもおずおずかもしれないが、またまちがっているのではないかと、いうこともあろうが、個がたちあがっている、ということはあろう。かんたんで乱暴な日本人没個性論などは、いかなる意味でも現実を反映はしていない。

日本学園と杉並の選手にも、せっかくアルゼンチンがきているので、この偉大なサッカーネーションの代表チームのプレイぶりに敬意を表して、かつ、では今すぐ、グラウンドで「きみたちは、なにを、真似るのか?」「真似てよい世代であろう」サッカーの古典では、若い選手、ユースやジュニアユースは、「その国の偉大な先輩のプレイを真似て、そだってくる」ということであって、フラットの理屈をコーチから教わることが、サッカーをまなぶ、ということではない、とされている(はずなのだが)

それで、選手は見たままを真似ればよいのだが、あえてコーチがそれを言葉にした。
1) 守っている(日本)選手に常に、読みはずしを強いる、フェイント
2) ボールを保持して、止まっていない、ステップ
3) 止まっていない姿勢から、つまり、微妙に動きながら、ボールを蹴れるということ
4) ポジションの交換に、意味があること、ポジションを交換しながら、瞬時に味方の動きの真意をお互いにわかること、クラマーさんなら、ドリームアンダスタンデイングと言ったろう、
5) ボールを受けるほうも、動きながら、ボールを処理できること

こういうことであろうか?
毎日、毎日、サッカーを「やっていく」ということをただ、「あたりまえ」だろうとすると、私などは「つまらないではないか」と思う口である。
スポーツマンも「あきる」はず。
ただ、あきて「練習をやめてしまえば」「ただの人だろう」
だからなにか「変化」をもたらしてやるのも、コーチの仕事か?
(この項終わり)