フラットプラスプレス?

2003年6月08日(日)

日本学園の高校生も、中盤では相手の、てんこもりプレス、そこをぬけだしたとしても、なんでもかんでもオフサイドのフラットに苦しんでいる。

それでも、全日本のだれかが、新聞記事にそのコメント「ジーコ日本も、もう少しかたちの練習をしたほうがよい」などという、お笑いごとはいわない、というか「仮に、苦しんでいても、くるしみのよってきたるところを、かたち、だなどといわないで、サッカーの原点にもどして、考えるしかないではないか、と」コーチからすなわち相川から脅されるわけだ。

日本が、プレス、プレスできても、その瞬間、瞬間の身体のふるまいを、全日本に読ませない、あるいは小さく連続的に逆をつきにくるアルゼンチンのサッカーに1-4で完敗してしまった、全日本であった。
もうひとつは、パスの「長さ」=とられないための正確性を担保している、パス、ということにアルゼンチンはなれしたしんでいる。

中盤でも壁をつかう、壁へのパスも馬鹿馬鹿しく「長くはない」ふりむけなければ、バックパス、バックパスの次も、ダイレクトまたダイレクト、で、日本がひけば、少しドリブル、別にアルゼンチンのプレスがきついから(きつくはあるのだが)日本が攻撃できないのではなく、日本のどこでもやっている、サッカー(それがなにかは表現すれば長くなるが、要するに、みなさんが毎日、毎日みなれている日本のサッカーって、どこかに欠点があるのだ)がアルゼンチンのそれには、対応できないと言うことなのだと思える。

1-3になったところで、このごろいつもそうだがビールの酔いで眠ってしまった。

トルシェは少なくとも「なにを考えているか、わかったが」ジーコは「わからない」わからないと思えるところは多い。
国立でシュート2本しかなくて、韓国に負けたあと、シュート練習をさせたとか?
そしてみんな例によって、唯々諾々とそれに従った、と。

昔、吉本隆明が、死んだ開口健のことであったと思ったが、開口のことを怒ってこういったことがあった。それは開口がヴェトナム戦争に従軍記者として参加して、「現場に行かなければ、わからぬことがある」とかなんとか言ったことに猛然と抗議してこういったわけだ「現場などに行かなくても、透徹した思考の持ち主なら、書斎に寝転んでいても、すべてはわかるのだ」と。

しがない高校チームにゲームをやらせても、その相手が、フラットプラスプレスで、冗談ではないが、杉並の選手に説明したとおり「相手の高校生は可哀想だな、青春で、サッカーというスポーツをやってるのではなく、プレスというスポーツをやってるんだ」といったわけだが、そのプレスとかフラットとかいうスポーツをやってくる、相手に対して、こちらが、苦労しているのを見て、なんとか「プレスはずし、ラインくずし」の「こつ」を少しずつではあるが、考案している身であれば、別に、全日本のベンチにいなくとも、全日本の行かなければならぬ途など、すぐわかる。

なぜなら回答は古典にあるからだ。
●ボールをひとたび、もてば、容易にはとられない、いわゆるキープ力
● 少しでも縦につけられるなら、そうしなければならぬ判断のはやさ
● ボールへよる走る速さ
● スルーパスだ、足元だと言う区別をしないで、ランしている選手のスピードをおとさないパス
● そしてそのパスを、スピードを落さず受ける、能力。
これらは、攻撃の問題点である。守備の問題点もある。

こういうことは、すくなくとも自分が小僧のときにもしつこく言われたと思うのだが、そこにもどるしかないような気がする。

それと、こうやって、協会のチームが負けるのだから、協会が押しつけるサッカーについてのコメントもほしいではないか?
ビデオを見ると、0―1、0―2の場面で、フラットはただ、フラットでいるだけである。

その場面での、ボールは要するに、攻撃する側にとって、有利なショートが足元にやってきて、それをラインが見ている、というだけの話しになっている。自分はフラットはかまえだけで、ボールがきたらチャレンジ、というように単純に、している。チャレンジを担保するためのカバーもむろんである。

だからそこでとめられなければ「負け」だがチャレンジに行かなければ、「もっと怒る」チャレンジに「行けるか、いけないのか」そういう心のもちかたで、生きるのが「バックとして生きる日々」というのではなかったのか?
(この項終わり)