白線のなかの世界での練習


2004年6月04日(金)
火曜日は雨で練習中止というか、相川さんはグラウンドには出なかった。

水曜日が週の最初の練習だから、この日はあまりテーマということを言わない。
頭をまたサッカーに焦点あてるぞという、そういう設定の日だから、まずはどこのチームでもやっているようなことしかやらない。

木曜日、相手の久留米の特色「よせのはやさ」を人為的に、作り出して、普段なら7対7でやる半面のマッチを8対8にし、かつ、トップの守備も、「いつでも どこでも(よせなさい)」とした。
普段はトップに省エネOKだとしているから、あまり、相手のバック(=ライン)のボールを追い掛け回さない。アンダー23の山本あたりが見たら、気絶しそ うな、サッカーを教えている。

それを、トップにPress Anywhere, Anytimeとした、別に日曜日にそういう守備をこちらのトップに要求しようとは思わない、そうではなくめったやたらによせてくる久留米のやりかたを、 せめても練習段階で、導入させて、ボールを持つ側がいかに「はやく、判断するか」をくせつけたいからだけだ。

それで、木曜日には、とうとう、ゴール「なし」の20本キープなんていう練習まで、もちこんできた。
こういう練習いくらしても、ゴールにむかってどうしたら、相手を崩すというそういうことを学べるわけではない、(ということを知ったうえで、木曜日、こう いう練習を行った)

例をバスケットにとれば、2時間あったら、多聞バスケットのコーチはいろいろくふうはあるだろうが、バスケットを守る相手に、こちらがどう縦に進むか、と いうことがしょせんはテーマになるだろう、そうではなく味方のバスケットのほうにもパスしろランしろそれでボールをキープだというような、練習を2時間す ると言うことは考えにくい、だからそれと同じで、木曜日、ノーゴールでひたすらボールキープという練習など普段はまったくやらない。

Realityが「ないからである」

そこを、あえて練習として選択した。
ひとつは、蹴って、こぼれを誘発して、そこで守備をやって、で、チャンスを、掴む、そういうようにしか久留米のサッカーを記述できない、自分がいる。

だからそういうのがサッカーとは思えないから、そういうチームには負けたくないわけだ。
負けないためには、それでもボールを失わない、というサッカーで臨むというのが正しいと思っている、しかし、ずっとキープというわけにはいかない、だから 高校生にも、キープ→ロングは不可分だとした(そういうむずかしい言い方ではないが)しかし練習環境がそれを許さないので、きょうはやむをえずキープだけ だ、とはした。

あるパスが良いパスか駄目なパスか?
それを決めるためには、やはりゴールがなければならないだろう。
中央が混んでいるから、そとというのは、わかるが、中央を使うスキル、発想、そういうものがなくて「やたら外にボールが行く」のはサッカーじゃないと思っ ている。
外から、無計算にクロスをいれてきたら、 長身キーパーが対応すればよいと割り切ってるのではないか、ヨーロッパのサッカーはという思いを、2001年イタリアで3部のサッカーチームの夏季練習を 見ながら、しきりに夢想していたものだ。

そこはローマから北上1時間半のビテルボという街の郊外のグラウンドでそこで、地元のチームの練習を見ていたのである。
いつも言うように、コーチはと、いうか幸せな、コーチがいるべき場所というのは、自分のBoys=選手が練習しているグラウンドである。
銀座の高級クラブでもなければ、娘や息子がいる家庭の居間でもないのだ、よくひとがいうことだが、人間は、自分がいる場所を見つけて初めて、安住のこころ をもてる、というわけだが、コーチの場合は、だからそれはグラウンドである。

だからコーチになりたかったら、まずグラウンドに特別の思いと、特別のセレモニーを設定すべきだろう。

グラウンドにお辞儀したりすることを奨励するわけではない。

そうではなく、選手にも、グラウンドの白線のなか、と、そとというきりとりをはっきりさせるべきなのだ。
グラウンドのなかで、「素人ができないことをやるのが、選手である」そう自分は考える。
またグラウンド(練習環境)では、恥を捨てて、やれないことをやって失敗をするのが、選手である、と、そうも自分は考える。
そして白線の外に出てきたら、普通の人間になる、それが自分の理想とする、サッカー人の生活だ。

なかなかむずかしいが、そういう基本をもとに選手にサッカーを教えているつもりだ。
白線のなかの、いわば世界のありかたは、「普通の世間のありかた」と異なるというように、自分は思っている。だからおもしろいのだ、と思うのだが、高校生 にはむろんわからない。
白線の中というのは、そこで勝つやつというのは、誰よりもスキルがあって、また誰よりも、体力があって、最初の0分から90分まで、まずはミスしないぞと いう意識を維持しなくてはあるいは維持できることに楽しみをもてる、という奴でなくてはならない。

そこは(白線のなかは)素的なところなのだ。
ただし自分がひとから、つきころばされたり、足ひっかけられたりもする、悪辣なものもある場である。

その場に立って、相手よりほんの少しうまい「サッカーをやる」そうすれば、勝てる、というのが相川さんの信念。
白線の外で、周囲の1年生が手拍子うってそれにあわせて、選手が踊っているチームがあったが、白線の外のことは自分の考えでは、白線のうちのことに無関係 である。
サッカーができなければ、その日の自分の活躍は最初からできない。どんなに踊ろうが。
サッカーができてもその日の自分のバイオリズムもある、ひらたくいえば「切れ」があるのかないのか?
切れがあっても、相手が自分以上の男がやってきたら、普通は負けるわけだ。
で、なんとか、「相手に勝ろう」とする。そういう場なのだ。
(この項終り)