ジーコの資質

2003年6月01日(日)

高校生の中間試験も済んで、またコーチングの日々がやってきた。
この2週間は、ほとんどサッカーとは、縁を切っているので、また「サッカーで着想を得る」という状態には、なかなか、もどらない。

頭的には、休んでいたわけだが、厚木にサッカーパークを創る、企画のほうでは、いろいろと動いて、いたので、オフという切れ目ではなかった。

5月31日(土)明大前で日本学園の父母会主催の懇談会があって、でかけた。
日本学園をPK戦でやつけた、駒沢大学付属高校はそののち順調に勝ちあがって、おそらく相手は曉星だろう。そこらへんは読めていたわけで、まったく惜しいPKロスだが、言っても始まらない。

呑んで騒いでいるうちに、日本は、韓国に0-1で負けていた。
ゲームを見ないではなにもコメントできないが、日曜日これもまた雨とグラウンドコンデション不良で、すべてのスケジュールがなくなったので、六本木通りぞい、溜池にあるスターバックスのオープンテラスで、ニッカンスポーツを読んでいたら、「ジーコ日本に大ブーイング」とあった。
字面を読んでも、「ゲームのありさまを、想起はできないのだが」「他人の言葉、他人の描写」「から」も何か、空白になっている自分の脳内に、サッカーをひきこむ、作業ということはできる。

例えば、「雨にぬれたピッチ状態を考慮して後半からシュートラッシュに出た相手とは対照的に、最後まで単調な攻めを続けて攻撃の糸口さえつかめなかった。」とあるところで、この記述は、理屈としては「おかしい」ねと、読める。

韓国が雨でシュートを(おそらくは、ややロングでも)撃ちはじめた、ということを言いたいのは、よいが、「対照的」というなら「シュート」を撃たなかった、撃てなかったという表現になるのではないか?「単調な」攻めを続けたということもおそらくそのとおりなのだろうが、ここに続くか?
また、そういうことは別に、それが「なぜか?」ということを、コーチは(ゲームを見ながら)知りたいわけである。
単調な攻撃になぜなるのか?

単調さを「くりこまない」ということが、戦術そのものであろう。
このように、いったん、サッカー・モードになると、新聞の記事でさえ活用ということになる。

さて、コーチとしての、ジーコの資質について、そろそろ批判がでてきた。
マス・メデイアの言い分は、毎度おなじみで、同じ、ニッカンの記事でも、飯田玄とかいう記者がこういうことを「平気」で書いている。

「試合前のミーテイングでも基本事項の確認がほとんど。途中出場のMF遠藤は、気持ちで負けないように、といわれた。細かい戦術的な、指示はなかった」。三都主も「小笠原とのポジションチェンジや、ボ゙ランチが2人とも前に行くななどと言われた」と攻撃面の細かな約束がなかったことを明かした。」とある。

攻撃面の「細かな」約束だって?

この飯田という記者はサッカー、知らないんだろうね。
確かに遠藤にむかって、ジーコがはいたせりふだけなら、高校サッカーの監督でも言いそうなことである。それでかたや、ギャラ1億で、というところがわからないものの、間違っているわけでもない。
なんとなく、記者のほうが、選手をひっかけているかのように思える。
ということは、もう決めているわけだ。
ジーコのサッカーでは「あかん」というように。

だから「言わんこっちゃないのだが」ここへくるまでに、「まかされる数ゲーム」というものがあってもよいわけだ。だから最初からノーではないものの、いつの闘いでも同じだが、代替プランというものは、周到に用意されてあたりまえではないか?
(この項終わり)