練習試合で転戦中

2005年5月31日(月)

先週と同じく東久留米に車を走らせる。
忙しい1週間であった。
6月10の予定で、横田基地のある羽村市に、フットサル場を、あるひとが投資して作ったので、その運営にあたることになった。
毎日、羽村に行くと言うこともないだろうが、羽村だ福生だ青梅だに、多聞出没する頻度が多くなるのだろう。
そんなものだよ、人生はね。
えさを摂るということが、基本だ。
えさ場がどこにあろうが、えさがあるなら、どこにでも行く、というのが動物の基本だから。

えさを採っていれば、生きていけるわけだから、「声を発する」というのは実は余計だよね。さびしくなったら声を発する「が」その声を「聞いてくれる」ひと を、自分の周りに、さーどういえばいいのか?置いて行くと書いたら、その自分の声を聞いてくれる「ひと」がなにかせとものみたいないんしょうを与えるかも しれないし「そうではない」置くというより作っていくのだから。

相手にわずらわしい生活やら、日常の悲劇があったり、退屈があったりでも、そのひとたちが、自分の相手をしてくれるということが実は希少だよね。
えさをとる苦労ではなく、多聞ヒトを人間たらしめている余計な事柄をめぐって、口を聞けるというような、そういうひとたち。

ってなこと考えながら、久留米高校に行く。
きょうの相手は、拓大1高。
ラインの後ろにスイーパーを置く。

プレスをどうこうするという考えは、全くないようである、それはそれで、自己流だから立派といえば立派、だが一番やりやすい相手のやりかただから、たちあ がりから「蹴るな、つなげ」という指示、で、ハーフが再三「前をむくが」才能のない悲しさ、最終ラインでは、パスカットしよう、チャレンジしようという相 手の守備陣形を崩せないというかミスパスをくりかえす。

ここで、ハーフが頭の中を整理して、縦を「つく」おのれの、切れ味「ないね」としかし相手はボールをとれないのだから「はやめはやめに」サイドバックを使 えばいいのに、またミスパスだという状態を、ベンチから声だして修正、まず1-0楽勝ペースである。

ここに落とし穴があるのだが、こちらの10番が、さー前半だけで3―4度もキーパーと1対1場面を迎えて、ことごとく決められないのである。
変えちまおうか、というひらめきはむろん出る。

というのは、こういうのが一番いやだから。
チャンスつくれないというなら、まだわかるわけだ。
チャンスつくって、はい終りという場面でことごとく「決まらない」、経験的に、これは、良くないのである、だがその10番のパス出しは、まー「さえ」を見 せ付けていたので、そこに活路を見出して、後半は10番を1枚さげて、ゲームメーカーに、あがりめに別選手を投入、これもあたって、こいつがゴールいれて 2-0、さー3-0にしたら1年生のフォワード試すかなんて考えていたら、2-0からコーナーを頭で2-1、暑いので、給水タイムを60分にレフェリーが とったあと、縦パスをキーパーがOK、OKみたいに、でてきたら、いきなり相手にかっさわられて、2-2、その直後に縦パス1本割られて、2-3になって しまった。

やはりねと「10番ひこっめておかなかった自分を責めた」残り時間は5分ぐらい。
動きがさえない2トップのかたわれに、1年生の身長は低いが、ふくらはぎの筋肉のつきかたが厚い、選手をだして攻撃だけにしたらフリーキックそれを不振の 10番が直接ゴールインで3-3、これで引き分け延長になるわけだがまた直後に、その10番がきりこんでシュートをやっときめた。

古い話だがメキシコワールドカップのイタリア対西独みたいなゲームであった。
相手のキーパーは身長がないが、反射神経が抜群で、結局ゲームが終ってわかるわけだが、一応都大会のここまであがってくる、ということは「なにか」がある わけで、このチームの場合は、ほかの選手は一山いくらだが、このキーパーが「なにか」であったわけだ。

ただし反射神経が抜群だということは、これはキーパー出身のコーチに聞きたいわけだが、まちかまえていて野球のバッターではないが「投手の一番速い球に、 タイミングを合わせている」という言い方がある、そのうえでより遅い、カーブだなんだという変化球にも対応できるようにしてある、というように、キーパー はやはり一番速いタイミングを想定して、動こうとしているのか?

ハーフタイムに選手にこのキーパー対策として余裕があったら、少しタイミング遅らしてシュート打てと指示したが、2-0の2点目はそう言う点ではうまい点 であった。4点目もキーパーは「こいつが打って来るのか」という思いでその試合の過去のデータで(タイミング判断)反応したものと思える(だから、とれな かった)、こういうことがサッカーだと自分は思っている。

相手のキーパーはいつまでたっても校舎のかべにからだをあずけて泣いていたが、泣くのではなく、たかがサッカー、でもより深いものがあるのだということ に、思いをはせてもらいたいものだ。

これで来週は久留米。

強いとは思わないが、一途に蹴って、ひろって、からだをぶつけて、というそういうサッカーである。結果どうあろうが、高校生とその親はしあわせだろうね。 この一週間も「生きている」ということがおそらくは実感できる、日々のはずだから。
(この項終り)