ジーコ流監督論

2005年5月30日(月)

選手を「選んでこられる」代表だが、ジーコは、やはり、陥穽におちたのかしら?

どの陥穽かといえば、彼自身が黄金のカルテットの一員であった、ブラジル代表のときに、彼のこころに固く、根ざした、「攻撃サッカー」がおちこむ、陥穽である。

新聞読んでいて、時々疑問に思ったことが、いくつか、その謎がとけることがある。

新聞記者は新聞記者だから、そもそもある監督がどんなサッカーを目指しているのか?彼の「言うところを」受けとめて記事書くか?批判して書くか?であって、そこへ行くと同業の、コーチなどは「言うところ」ではなくて「行動を見て」彼の「サッカーにおける、本当の所」を観察するわけだから、それはジーコの場合も、同じである。

言わずもがなだが、他人に「おのれのサッカーのなんたるか、吹聴しているやつ」の「言うところというのは」「冗談みたいに聞こえて、意外に、ほんね」と言う場合もあれば「あなたを、ミス・リードしようという謀略だけ、の物語もあるわけで」それはジーコだろうがどこかの、中学の監督だろうが、同じ口から出る、言葉については「一応聞いて見る」程度である。

そこへ行けば、行動は、その行動に、複数の目的、意味あることはむろんだが、行動の限界とでもいうようなことを、現場やっているコーチはまたわかるので、「行動していればいいのかよ」という問責も、もつのである、つまり結果がでなければならない、ならないといわれるのが、この商売なので、「あること、言いました、あること行いました」「しかし、結果はと、問われて」「でない」と自己評価もして「じゃー、俺は、どうするんだ」と、そういうように、思うわけである。

1)まず、例の、鹿島での、キャバクラ事件。
ジーコは「代表であれば、自己管理、自己責任、サポートしてくれる、人々へ応えるというスポーツマンとしての、自覚」どういう言い方、表現でもいいのだが、そういった価値を、「立てて」で、選手にアフタートレーニングはまかせたのであろう。

いまどき、ちょっとした高校やら中学で苦労されているサッカー担当の先生に、その感想もとめたら「苦笑して、それは機能しないんではないでしょうか?」というのではないだろうか。

いろいろ議論はあろうが、ジーコが「やらせたい、サッカー」からしたら、アメリカ人がいうマイクロ・マネージメント、つまり「こまかな点まで、ああせいこうせい、あれするな、これするな」という、そういう管理方法あるいは管理の前での、ポリシーとしては、ジーコの考え、理解はできる。

つまりジーコは、グラウンドでのプレイにも、選手の発想、選手の判断、そういうことを、第一義だと、心底思っているということだ。ジーコのサッカー観を、描くとしたら、この一点を描けば、充分だし、ここで文章終わってよいわけだ。
ところが余計なおせっかいだが、新聞記者は「木に、竹を継ぐ」式の、考えで、「あれがいけない、これをやらない」式の批判を展開する。

念のため「木に竹を継ぐ」を国語辞典でひくと「異質なものを無理にくわえてうまくいかない例え」とある。
ジーコのサッカーはブラジルが一番華やかであったころの、攻撃サッカーである。
たとえばトルシェがもちこんだ、守備サッカーとは異質なものである。

2)このごろ川渕さんもそう言っているようにジーコは、選手の悪口を言わない、というあれ。これって多分、川渕さん自身、尊大で、エゴのかたまりみたいなトルシェの、キャラに苦しんだという前段があるのではないかと、推察できる「そこへいけば」ジーコは選手のことを、悪口言わない、ようである。
それが、よいことなのか?わるいことなのか?そこを論じはしない。このあいだUAFに負けても、ジーコは、誰が悪いとは言わなかった「らしい」新聞記者が「鈴木たかゆき」のできをたずねても「だれだか忘れたが、高名な選手でも、PKをふかすことがある」とかいって、すずきをかばった、そしたら記者が「嘲笑」したというように書いてあった。

つまり、ここでもジーコは信念として「自分は、監督やら、コーチから、罵倒されたり、批評されたり、強迫、脅迫されたりして、プレイしても、うまくはいかなかったのだから、そのやりかたで日本代表でも行く」ということであろう。

英語で言えばProvokeというやりかたをしない、ということだ。プロボークというのは、かんたんにいえば、選手を脅かすことだ。
選手の欠点やら、弱点を言って、「おまえ、それを、どうするんだ、克服してみろ」というそういう心理的ツールである。むろんコーチの思いとしては、選手がその言葉やらコーチの態度に発奮して、「このやろう、とばかり」「やってやる」とでてきてくれれば、コーチ自身が「憎まれてもいいのだ」と思っている。

近々で一番世評も高かった、プロボークは「読売新聞の、渡辺つねおさん」というひとが「清原選手に」ベンチで、なんにもしてくれなくていいからとか、言い放った、やつである。しかし渡辺さんは、コーチではないから、心底からそう思ったのかもしれない。
ヤンキ―スのスタインブレイナ―さんも、伊良部選手を「肥ったひきがえる」だと、言い放った、プロ野球のオウナーのひとたちには、コーチのしごとを荒しにくるひとたちが多いようである。

ジーコはここでもキャバクラ事件と同じ一貫して「選手を尊重する態度」をとる。

3)前から疑問に思っていたことが、このあいだ氷解したのは、対UAEの試合の前、グラウンドで、けっこう長い説教MTGをジーコがやった、ととある新聞にかいてあった。

それは、どの新聞にも書いてあったが、ある新聞にこういうことが書いてあった「これが(=グラウンドでやるMTGが)ジーコスタイルである。MTGルームではやらない」これが本当だとしたら、やはり、ここでもジーコはブラジルの攻撃サッカーからぶれてはいないということになる。

なぜって「どう攻撃するか」をホワイトボードに書くやつなんか、それだけで、信じられないもの。
サッカーの攻撃のやりかたをボードにいくら、描いてみたところで、なにも起きない。とわたしなんぞも思っている、そんなことに時間を使うのなんか無意味だと。だから書くときは、コーチ自身が「あほ」のように見られたくないから、あることを説明のために、絵にしたり、線を書いたりするが、その次のパスがどうなのか?「こっちへも行くか、あっちへも行くか」「それはコーチだってわからない」とは言うわけだ。
しかし選手の動きは「かくあるべし」というようには言える。

それだって絶対的に「こうしろ」と言っても、そうはできない事情が試合のなかで、でてくるから、結局「ある場面では(とことわって)、こうしろ」ということになる。

外側の選手が「ダイレクトでクロスをいれるか」ひとつ「もつか」を絵で説明するわけにはいかない。

ただし守備のやりかたを、ことこまかに説明するとしたら、グラウンドよりはMTGルームでやるべきだろう、守備のやりかた「も」場面がちがえば、同じ「やりかた」で通用するわけではないから「守備はこうやる」とボードにかけるわけでもないのは攻撃と同じだが、かんたんいえば、守備のあるアイデアは確率を導入するということだから、図示しやすいとはいえる、ほんとうは、ボールゲームの攻撃は千変万化の「はずだが」レベルが低ければ、千変しないので、相手の攻撃を、パターン化できる、そのパターンで相手がくる、確率およそ90%ならば、その90%に対応できる、守備の方法、図示できそうである。

しかしジーコはそうはしない「のだ」というように、わたしには読めた。
やはりね、である。

4)その割には、UAEの試合の前でも、「宮本が、今度は、高いところで」と(まーこいつもバカのひとつおぼえなのだが)というようなことを「言っているだけかとおもいきや」「グラウンドで練習するのだ」というように、記事にはでてくる。これも疑問に思っていたのだが、「それってジーコが、練習でとりあげているわけ?」と外野席だからわからなかったが、どうやら、練習はそういうことを徹底しているものではなさそうだ、そうではなくて、記者の思いこみというのか「決定的な試合では、高いところから、プレスかけることが、勝機を」と思いこんでいて、代表監督がつとまる、気になってそう書いてしまうのであろう、
対UAE、豚児の自分から見ても、日本代表、別に、高いところでプレスかけているから優位(という場面もあったが)だけではなく、要は、相手がひいているので、ボールしはい率は高かったということであろう。

ただしいつも言うのだが、ボールを支配するために「2トップ」に「ひいてくる」動きを「許す」わけである。
それだって、相手にして見れば、ばかな高校生ではないのだから「最初のうちは」ひいていわば、そこにボールがあたって、で、相手が
そのボールをとれない、という現象がでる、だから「どうしたの」って普通はおもうではない、だって、ひいて、そのあと「フォワードはどうするの?」がサッカーだから、「ひいたとして」も「ゴールにはむかっていかなければならない」「ゴールにむかっていく、その行き方が」「はやくなければ、相手は混乱しない」「ゴールにむかっていく、フォワードにパスがつかねばならない」「ゴールに向かっていくフォワードにいくパスがそのタイミングという意味で、相手のバックの読みをくずすということも必要だし」「ゴールに向かっていくフォワード以外の誰かに、パスがでていくということもあるだろう」とか、そういうことのほうが大事ではないのか?

大黒をだすのはよいが、大黒と鈴木は、フォワードとして、上に書いた最後のエリアで、どうやって、動いたら、よいのか、自分には、別に大黒←→鈴木でなくても、玉田←→高原でもどんな組み合わせでも「さすがだね、このユニットの協働は」という場面を見たことが」ないので、いくらなんでも、ジーコがそんなこと、知らない「はずがないのに」と、いやひょっとして、ジーコは3流コーチがときにおちこむ、こちらのトップのだれかの単独プレイで、ゴールにねじこんでやる、という傲慢な発想に犯されているのだろうか、都思ったりしている。

恥ずかしい話しだが、自分のチームはフリーキックを3本直接で頭で決められて、負けてしまった、そう言う意味でUAEの守備を(日本がクロスどんどんいれてきた場面で)見ていたが、結局、サイドからの攻撃では、UAE守り切った。サイドからクロスは常識であるが、その攻撃で絶対的なほどに、強いというのだったら、いったい誰が、カードのなかにいるの?そいつをバーレンにつれていかなくていいの、ひらやまじゃないのか(最近の体調は知らないけれど)
と無責任に思っている。
グラウンドはひどいとイランの選手が言っていた。暑い。
そこで緻密なサッカーをやるのか?
簡単に言えば、中央のトップに、ハーフがたまだして、それが決まらなくても、相手がサイドを棄て出す、ということを「やれない」というように思える。
サイド攻撃を誤解しているのではないだろうか、いや誤解はないとしても、クロスをいれて、そこで、イランが」日本にやったように、コンタクトがあって、ファウルすれすれだろうが、守備がつぶれる、そこで押しこまれる、2002年のサッカーもいろいろあったが、やっぱりそれだろう、と、いうように思った。
単独のチームでは、そうは空中戦に強い選手をもってこれない、が、代表はちがうのではないか、悪いことに、空中戦ゆいつ、可能性ありそうな、高原、肉離れだと。

今の所、ジーコはぶれてはいない、ジーコぶれていないから、OKというような書き方だが、ジーコが、コントロールできないこともある。
そのひとつが、ジーコあるいはブラジル人の(といってもどこの人々ももっているが)ネポテイズムが「きかない」ということだろうと思っている。

ベンチスタッフ「気心が通じているから」と言う理屈で身内で固める。
忠誠心を求めるからそこはよいとして、ブラジルなら、「ジーコファミリーにとりたててもらおう」という意識でがんばる日本人選手はいないのではないだろうか?
商売人ジーコだから、当然人脈を広げて行く、ことには、鋭いはずである。
中田だけは、自宅に招いたそうだ、現役をやめても中田が、日本サッカーとか、国際サッカーのどこかのシーンで、キーパーソンを演じるだろうから、その中田とアミーゴであることは、ポリテイカル・グッドである。

大黒などはジーコにしたら犬のクソみたいなもんであろう。
せっかくチャンスやったのに、爆発しねー、みたいに思っている、爆発したら、コリンチャンスだろうが、イタリアのクラブだろうが「俺が口きいて、大黒、おまえを、世界のシーンにだしてやれるのに」というぐらいは思っているだろう。そのかわりに、おまえは「おれに恩をきる」ということであろう。
いや、別にそういうことでもかまわないとは思う、しかし飽満ジャパンで、それが通じるのだろうかね?
いや日本人の志が高い(であってほしいものだが)とか、ではなくて、ここでも結局は人間と人間のあいだのケミカルの問題があるかということになる。
トルシェは「中田浩二」をつれて行った。
彼は、やまもと・まさくに、のほんのなかでは「自分を主張しないやつ」と(しかしそのことが好意的に、かかれてある)トルシェは「おの」も嫌い「なかた」」も嫌いであった。
ジーコは、住友金属という弱小チームにきて「神様のようにあがめられて」多分そのごの鹿島のどの選手からも忠誠という得がたい、ものをひきだせたとは思う、しかし3等国民であるブラジル人の求める、忠誠心どこか?田舎くさくもあるので、代表のチームのように、よそからきた選手には、そのかんどころがぴたっと「こないのではないだろうか?」

もうひとつ気になることがあるのは、ワールドカップは、いわば品評会であって、そこに登場することで、移籍市場で、ファーストクラスに席をしめるためのてっとりばやい、機会になる、むろん、すでに名前あげた選手にとっては、よりキャリアアップの機会になるのも同じだが、移籍市場に「どうしても出たい」という動機をもっている若手は、誰なのだろうか?
「なかざわ」はそうらしい?
で、あとは?
国外組み、偏重、悪いとは思わないが、かれらの動機とはなんだろうか?
バーレン「引き分け」たら、OKである。
(この項終り)