コーチの幸せ?

2004年5月23日(日)

東久留米にある都立久留米高校に、朝早く、でかけた。

途中、四ツ谷3丁目のスターバックスで、コーヒーを買う。

日本学園の総体都大会1回戦は、創価高校。
去年の夏に、ぼこった、あいてだ、5点はいったか6点はいったか覚えていない。

その前までは練習試合、相手のほうが、強かった、というかどういう理由かは別に、勝てなかった。

勝てなかった、という理由を、むろん親愛なるコーチ読者諸氏は、「相川のやりかたで」「勝てなかった」というように読んでもらいたいわけである。

ただ(練習試合で)「勝て」ということなら、いくらでも言える、また「勝つ」ことなんか、簡単である、そうではなくて、(リアクションサッカーをやるのではなく)こちらの「やりたい、サッカーをやって」勝つということを、言いたいわけだ。

そのこちらのやりたいサッカーをやって、相手をぼこったのが去年の夏で、それ以降、練習試合もやっていない。

で、コーヒー飲みながら、青梅街道を田無まで走り、そこから所沢の方向にぬけて、久留米高校まで行くあいだも「なにも胸に去来しなかった」つまり、勝つだろう、と、思っていたということである。

こういう根拠はどこからくるのか?

練習試合で相手をぼこっても、それからチームも変わり、といういろいろな変化の可能性が「あってもよいのが」この世のはずだが、なにも、情報など集めもしないのに、「きょうは勝つ」というように見切っている。

校門のところで、久留米高校のサッカー部員が、(応援者は)車で来場してはいけないので、鉄扉をせまくして、待ち構えている。

自分でパソコンで創った、駐車許可証なんてものを、見せると、なにもチェックしないで「通してくれる」わけだ、むろん、チーム関係者は「車で、はいってよろしいわけなのだが」それにしても、サッカー部員「甘い」ね。

テロリストもかんたんにこの日本、とおりぬけることができるだろうに。

創価は3-5-2。
こちらは4-4-2。

守備のときに、どう対応するか、システムを言おうが、そのことはなにも意味はしない。

コーチからすれば、基本則は、
「最終ライン」は「崩したくない」ということは、「どういうように相手が、こようが」だいたいの、対応は結局「ハーフを、その日、観察した相手のシステムに、あわせていく」のだろうと思っている、いやこれは間違いかもしれない。

こちらは、オフサイドトラップはまず使わない「から」結局この考えで臨むと、ボールサイドはあまり、問題は出ない。
つまり相手がどうだこうだのシステムをもってやってきた、ではこちらがどうする?という問題は派生しないということである。

ただ相手の5人のハーフの「行動のとりかた」で、こちらの、
ラインが混乱するか?
ハーフが混乱するか?それを見極めて「から」必要な、手は打つ。

こちらが採用した、守備ハーフの2人のうち、ひとりの3年生が「いかなる、意味でも」「こちらのラインの守備を、どうやったら自分が(守備ハーフとして)、やりやすくさせるか?」なんていう問題意識を「もっているやつでは」「まったくない」ので(じゃーどうして出したんだといわれるが)答えは、守備のほうではなく、攻撃の方で仕事してくれるのかな、という程度のコーチの問題意識である、とにかく、へたくそな相手なのに、とくに相手の左サイドから、攻撃を受ける。

見ていたら、「どこにどうやって、でてくるのかわからない相手のトップの動きと相手のハーフの動き」にラインが対応してしまっているので、試合中に「あがりめ」のひとりをさげさせて、いわば3人の守備ハーフを置くという布陣をひいた。

3人いれば、(余談でいえば、いまさっきやりだまにあげた、3年生でなく、もうひとりの2年生守備ハーフは、嫌いではないが、マンマークでついていって、自分が納得するタイプである、あるときはぼかし、あるときは猛然とボールにいって、結果、こちらのラインにいかにも、相手がばかか?こいつらと、思えるような仕事しかさせない、というタイプの守備ハーフではない)だから、3年生のハーフが、守備ハーフの仕事って「何ですか?」といわんばかりに、「なにもしないので」こちらのラインが、いちいちあいてにつきあっている、状態があったので、そこにあがりめ、ひとり落として、こちらのラインがあまり動かなくてすむようにした。

そうして守備を手直ししているあいだに、1-0。

後半、そこらへんを注意して出したが、相手は相手の守備ハーフまで攻撃にでてきたので、ペースが相手に移り、いやなリズムが続いたので、3―5―2に変更した、3-5-2=5-3-2ということである、要はマンマークである。

ところが、まだ相手はリズムをとる。

その代わりカウンターがきくから、2-0にして、さらにスピードがある、トップを交代させて、3-0にした「から」相手があきらめるかと思ったので「1年生のトップ出したり」なんて遊び始めたら、3-1、3-2、と追いついてきて、最後は、ばたばた逃げ切った。

ゲームのあと、歩いて、近くにある和食レストラン「里」で、すしなんとかっていうランチたのむあいだに、ビールたのんで、まず神経をときほぐす。
といってもそんなに神経、こってはいないのだが。

後半3-5-2よりも、4-5-1にしたほうがよかったかな、って言う程度の反省しか、浮上しない。3-5-2というよりは5-3-2ということを意識させたから、そうではなく、どうせ、相手の3人しかいないラインはひたすらクリヤーだったから、中盤を厚くしたほうがよかったか?という反省であった。

次ぎは、拓大1高、ここはランチのあと、都立城東とゲームやっていたのでモニターしたが、10分で、見るのを、あきらめた。

おそるべき無個性、おそるべき、素朴なサッカーとしか、見えなかった「ので」
ほとんど居眠り運転状態で、赤坂に戻った。

先週は雨で1回戦中止になったのだが、そのあいだに、関東大会の、都大会がすすんで、拓大1高に来週勝てば、その次が、久留米、その次がおそらく、駒沢か農大1高、それを突破で実践、でやっと帝京といや「先が、長い」しくる相手、くる相手みんなタフである。

ゲームをやるのは「選手」だが、選手をしあげて、「コーチさえ緊張感」をもてるゲームの場にのぞむという、場を創るのはコーチである。
それがコーチの仕事なのだが、また仕事以上の喜びをもたらす。

なにを言いたいのか?

ただゲームする(それも黙っていても勝てるゲームをする)、だけでは、コーチの人生を選んだ、かいはない。

緊張というものを味わえるゲームをできる、日々、それが至上のしあわせである。
(この項終り)