勝負に勝てる「戦略」の考え方

2005年5月12日(木)

総体、都大会が5月22日から始まる。

1回戦は、対駒沢大学付属高校、毎年、一定の戦闘力は準備してくるチームである、ベンチで寝ていても勝てない。
戦法は、どちらにせよ、フォアチェック(前線からのプレス)フラット、ロングをこちらのラインのあけてあるほうにいっきに蹴りこんできて(駒沢のラインも見ていると、とめて蹴れば良いな、という場面でも、)ダイレクト決め蹴りっていうやつである。

こちらは、どうしようか?

すでに選手に伝えてあるが、「普通に行くから」

守備偏重でいくっていっても、昔ながらの意識的には前半、あがらないで、という程度にとどめる。

というのは、例えば、習志野と練習試合して、最初0-3になってしまった。
そういう3点失点、っていうのは、やはりバックの問題ではないのか?って昔ながらの、そういう切り口でよいのではないかと思っている。

つまり、そこでやれフラットのあげさげだとか、ラインの統率だとか、そういう「阿呆陀羅経」にいくのではなく、あらためて、個々の選手の守備能力に、選手の目をむけさせるよりほかにないね、というあたりまえの結論を言うにとどめるわけだ。

勝ち負け、ってやはり理屈ではなくて、例えばニュースでしか見られないが、岡田マリノス、中国に行って、1-2で負ける。岡田のもっている優れた、守備のノウハウがどれほどのものであろうが、「負けるときは、負ける」ので、その阿呆陀羅経「が」優れているかどうかなどを斟酌しているひまあったら、選手の守備能力あげろ、ということになる。


ただし、例えば同じ千葉勢の流通経済柏と、前述したように、良い試合やって、2-0でほとんど終りかけて相手のシュートすらないぜ、っていう、「でき」があるのに、習志野のワンツーに、「はれー」っていうまに3失点してしまう、そういう「目先すこし変わった攻撃法」を相手がしかけてくると、ずるずると「どう守るか、わからん、わからん状態になってしまうのが」いまどきの高校生だと、相川踏んでいる。
さー、そういうのを「どうするのか?」

無意識的には、「いろいろな相手を求めて、他流試合をやる」これが正解で、あることは、知られていることだろう。

そこに指導者の「相手を分析する知恵」やら「はでに勝たなくてもよい、とにかく勝つ」という考えが加味されて、勝負という「もの」の「今」があるのだろう。

そう言う意味で、プロ野球が「交流試合」を始めて、野球門外漢のわたしだが、いろいろな意味で、見ているほうも、やっているほうも「おもしろいんじゃないのかな」と感じている。
もっともらしい、マスメデイアやら「こういうように内容とか、方向性をまとめてください」と指導下にあるもと野球人の言うところ、をシーズンの最初に読んだりすると、あれは「どのチームにも、可能性があるかのような、描き方」が予定調和であって、現場はどう考えても、御互いの戦力分析と評価を、ほぼ寸分の狂いなく、もっているのであろう。

それを言ってしまったら、鼻しらむから、よってたかって、今年はおもしろい、っていうことにしましょう、しましょうである。

そして指導者のほうも、わかりやすくいえば、野村さんが、スワローズをひきいる、では対巨人はどうするのか、対横浜はどうするのかという、あたりまえの、計算で常に、頭つかっているのであろうし、どうやったら、ニューヨークジャイアンツ「やつけるか」なんていうのは、頭の中を「かすりもしないであろう」

では、プロ野球交流試合という、今年は、]初めての企画のなかで、コーチからみたら「仮に、野村さんが、いたら」どういう野球を、別なリーグ相手に「するのか」そう言うことが興味あるわけで「ものをあまり言わない」中日の落合監督が、最初のラウンドで負けている、みたいなところもおもしろい。

つまり、落合、そうは言わないが、少なくともセリーグの相手ならば、彼なりの分析からしての弱点、をあたりまえだが知り、かつそれを選手に伝えて、選手がそのプランを実行できているとしか他に言いようがないわけである。

それが、例えば「野村監督の」「商売キャッチフレーズ」である「データ野球」みたいな「よそおい」を現さず「「おれ流」って、わけのわからんスポーツメデイアの「ネーミング」により、われわれに隠されているだけのようなものだろう。

どちらにせよ、同じ相手と、毎日、毎日試合やっていたって、刺激は減少するのは、自明である。
それはサッカーも同じであろう。
ただサッカーのよいところは、リーグのチャンピオンになれば、アジアであっても、中国やら韓国のチャンピオンと試合できる、ヨーロッパはご承知のように、昔はなかったUEFAのチャンピオンリーグなんていう、いやもう、ため息つくような、マッチメークのオンパレードで、その連続のなかで、 勝ちにいく、ということの凄さ、ということより他に言いようもない。

テレビで、PSVがACミランと試合しているのを見た。

ヒデイングというのはやはり「ただもの」ではないということがこのゲームを見れば、感じられる。でも、それは「なぜなのか?」そここそ知りたいわけだ。教えてくださいっていっても、にこにこしているだけだろう、結局は盗むしかないわけだ。

わたしの仮説だが、やはりサッカーの古典である、「縦にいくはやさ」を当然求めているように思える。
とくに、フラット、あるいは修正フラット、なんでもよいが、万能時代に、では、どうやったら攻撃するかも結局は
1) いかに、そのフラットのラインを「動かすか」ということが攻撃の主テーマである
2) 仮に、相手のフラットが動いた(といっても、相手の想定内でのうしろに下がる動き、横に移動する動き、もあれば)「混乱した動き=こちらが、強いた動き、もある」どちらにせよ、その、相手ラインを動かす、ということに、選手が、意識を傾けなければならない。
3) そうやって相手のラインが「動く」「動かす」という、その場面で、的確なパス交換が、求めるべき、チームスキルである。ここでドリブルのことを言わないのだが、どういったらよいのか、ドリブルはすでにして、ラインが崩れ出したら、有効だが、ドリブルを正面にとりあげて、対ラインの攻撃法を考えても、あまり意味がないように、自分には思える。(この考え変化していくかもしれないが)

余計なことだが、もしこれらの自分の考えからしたら、全日本の攻撃のしかたは対ラインに「サイド攻撃」だけでたちむかうような、古典の一部ではあるが、それ以外の方法論は、採用していないように、見える。

4) だから、ラインでキープしたり、ハーフがいささか、自己陶酔的に、パスを交換する、というような、そう言うサッカーが洗いなおされないと、フラットを主張して、攻撃のことは「知らんよ」というサッカーに負けてしまうであろう。ラインでキープすることは、よい、しかしその目的は、縦に「出すボール」がフォワードにしてみたら、そのボールに意図を与える、ことができるような、条件のよいボールであればよいことで、いくらラインでまわしても、フラットは崩れない、あるいは動かない
5) ハーフが、パス交換しながらあるいはドリブルがはいろうが、そのことで、相手のラインが混乱するのは、ロナウジーニョぐらいだろう、ハーフがハーフだけで、相手のラインを動かそうというのは、無理である。
6) ハーフ起点の攻撃も理屈のうえではあるが、要は、トップ起点(あがりめも含む)というサッカーを「やらないと」ラインは動かない、ラインを動かすために、こちらはかならず、「ユニット」で動くことを、やらなければならない。

ここらが、わたしの考えで、いいから証明しろというプレスを感じながら、高校生に試合をやらせる、わけである。
これってけっこうおもしろい日々ではある。
(この項終り)