負けた原因

2003年5月06日(火)

東京は来週から総体の、都大会。
神奈川では1、2回戦ぐらいは終わったようで、力がないチームはもう、消えてしまったわけだが、そのチームは終滅でも、また来年に向けて、次のチームを準備しなければならない。普通に考えたら、負けた原因が「わかって」で、あとはコーチが気力を奮い起こせば、それでまた準備の日々が開始ということになる。

ところが、この負けた原因、というのが簡単には、わからない、ようになっているのもこの浮きよの、不思議なところで、あろう。

負けた原因が簡単には、判明しない原因のひとつに指導者のうぬぼれもある。
指導者の無知もある。ここでは、コーチと書かないで、指導者だと書いたのは、コーチであるからには、うぬぼれも、無知も、傲慢もなしだとしたいからである。

人間であるからには、うぬぼれも、無知も、傲慢も、コーチのなかに「あるだろう」と言われるのは百も承知でこういうことを言う。
なぜ「ないか」といえば、毎週ゲームの指揮をとって勝つも、負けるも、くりかえしているうちに、戦闘という事実の前に、謙虚になるのがコーチだろうという経験を日々くりかえすからだ。

以前に書いたように、準備と指揮がコーチの仕事である。

そのうちの、指揮を言っているのだが、指揮をくりかえす人生で、コーチ自身はどうなっていくかといえば、限りなく、戦闘性が煮詰まるのではなく、まるで、書斎にいる学者であるかのように(そういう経験はないけれど)目が、細部に細部に、利いていって、平静平坦になっていくようである。

できないものと、できるものを、識別できるので、「うぬぼれ」やら「選手への思いこみもまずはない」闘う前に、ほぼゲーム展開が見える。どちらが勝つということが、わかるのではなく、(分かる場合も多いが)楽なゲームか、勝つにしても、タフなゲームになるか、それが見えるといいたい。