コミュニケーション

2003年4月26日(土)

このあいだ、正月だったと思ったら、もうゴールデンウイークである、まったく、やっていることといえば、選手に練習させて、試合、あいまに酒呑んでる、と、そういう人生。だが愚痴めくが、相川さん基本的には、高校生と話したりするのは億劫なので、やらない。

グラウンドで「ああせい、こうせい」は言っている、昔は「なにか質問は?」と聞いていたりしたが、今はそれもしない、日本人はとにかく議論「しない」気質、体質のだろう。

なにか質問は?ときいてそのあと数十秒のしらーっとした、空気が好きでないので、ボードで説明しても、「はい説明終わり、あとはグラウンドで」とすぐ練習させる。

練習終われば終わったで、「はいきょうは終わり」でまたさっとグラウンドからひきあげる。
コミュニケーションないといえば、ない。

なぜ「ないか」「なくてもよいか」と考えているかといえば、それはコミュニケーション「とるような、レベル」じゃ「ねーな」と思っているからである。
選手は、おおげさではなく、言葉に酔っているのではなく、おのれの身体をとことん支配する方向につきすすむ「からこそ」のスポーツだろう。
コーチと語らって、選手の身体支配が、向上するわけでもない。

極論をいえば、「うまくなる、からだがきく」状態をめざしてさえいれば、「それでよい」というか、社会人としては「よくないということは、わかっているのだが」中途半端に、「語れる」ことと「選手」であることをうまくバランスとってほしい、という気持ちが「ない」と言う意味になる。
ここのところが、「わからなくて」「やめていく」ひとたちも多い。
うだうだ「言うことのほうが」愉しい「のだ」というような、そういう社会環境にもなっているわけでもあるし。
自分で苦労して苦労して、あるスキルを身につけ、それをゲームで試す、
傍からみれば、スポーツマンの生活というのは、そういうことでしょう。

前にも書いたがゲームで「うまくいかなかった」「からといって、いちいち悩むな」である、コーチのアドバイスなんか聞きにくるなである、ましてや、家で、家族に心を閉ざすな、でもある、「ただ練習をやれ」である、しかし、どういうわけかこの国では、集団で心をあわせて、なにかバカ騒ぎみたいなことをするのが、練習であるというように誤解されているむきがある。
こういう練習がすべて悪いとも思わないが、言えることは「間違えたことを、くりかえせば、間違える存在になり」「くりかえす以上は、良い習慣を身体にきざみこめ」ということだけだ。

だから選手生活も「誕生記」があり「成長期」「成熟期」そして「晩年」があり、選手として「死んで行く」ときがくるということを、「コーチが」経験として、知っていると、そのときどきの選手に「なにをいうか」ということが明確になるだろう。

高校生などは、中学で「サッカーを覚えた」と思っている、が、自分に言わせればそれは「球蹴り」を覚えたか「ストリート・サッカー」を覚えた程度で、やっと「高校の段階で」選手の誕生時期をむかえるのだと思っている、
鉄は熱い内にうて、も正しいが、誕生記にある選手にコミュニケーション「から」はいっていくのは「誤り」と信じる。

それではなにから「はいっていくのか」「無視から」でよいと、ただその「無視」をいかに、選手にわからせるかがむずかしい、というのは、無言で選手に接するのが「無視」として選手に、受けとめられるかと、いうことはあたりまえだが、あるからである。

なぜ、無視するかというのは、簡単に言えば、「言葉でなく、行動の世界に、きみたち生きろ」といってコーチ自ら、その世界に「いるぞ」という演出をするわけである。

この世界の掟は、「悩まないで、行動につねに行く」ということである、「からして」いろいろコーチから初期に教えることがらを「まず、からだで、できるようにしてくれ」という、「できない」ならば、選手とコーチのあいだがらは成立しないのだから、できるまでは、いわば「きみは、選手ではない」「から、選手として、扱わない」ということになる。
それが無視である。

ただの高校生は、スパイク・シューズのかかとを、つぶして歩いている。
選手ではない「から」そういうことを恥ずかしく思わない。
注意したり、しなかったりだ、というのは、とてもじゃないが、「こいつ」は選手にはなれない、という判断があれば、口も利きたくない。

4月26日(土)にあるチームの練習ゲームを見ていて、気がついたことを、女子のマネージャーに、箇条書きさせた。
1) アップの際の、服装を(高校生で決めなさい)相川さんは、そこはルーズ、だから、自由であるとする、おしゃれをしたければ、グラウンドの上でおしゃれでもかまわない。ただし、相手のチームは試合用のユニフォームをもうアップのときから着ていた。そういうことは、すがすがしくないではないの(という価値観を世代をこえて、納得させたい)だから「こうでなければ」ではなく、チームで決めなさい、とした。
2) アップのあと、ゲーム開始まで、15分とれるようにしなさい。クラブハウスがしっかり「ある」環境でやれる、高校年代などめったにはいない。どこか試合にでかけて、アップをやるとき、実は、アップではなくて、練習をしたい、とそういうチームもいる、練習「だから」きつくても「良い」というのが現実だろう。そういうときに、10分前アップ終了では、あわただしい、だけでもあるし、心拍数もおちない。臨機応変だ、ここは(日本だ)ヨーロッパのプロではない。
3) 15分あると、選手の準備も余裕をもってやれるし、仮に、コーチがなにか言いたければ、そういうこともできる
等々

無視とはいっても、環境は整える。
それから、練習をどうやるか、練習でなにをねらっているかは、説明する。

すくなくとも「選手」というのは「口で訊く前、訊きにいく前に」「やってみる」という、そういう存在であろう、だから「説明はする」また「どうしたら、かれらの心におちる表現をしようか」と努力する、それからむろんデモもやる『悪い例もやってやる、選手の(とくに悪いふるまい)を真似してやってやることもある』

それで「さーあとは、くりかえしだろう」ただ、これだけである。

それから練習というのは練習だから、「できることをやらない=やれないことを、やれるようにする」というキャッチフレーズを守る。

逆にできていることを「やらせるときは」ただの「調整だろう、そう考えてやりなさい」である、また長い時間をかけない、かければ「同じことを、やりすぎて、緊張を欠くということになりがちである」あるいは「サッカーをなめる」ということにつながる、もっといえば「コーチをなめる」ことになるだろう。
おれたちに、そんなことを「やらせるのか?」というようなことを「口にする選手はなかなかいない」いないが「そう思われてはならなだろう」

練習というのは練習だから、また何度も失敗していることについて、注意はするけれどその失敗というのが「やろうとしての結果、失敗している」ことについては、練習なのだからそれでよいという態度である。

物理の法則やら、人体の構造上の制約とかを無視して「ばかをくりかえしている」失敗というのには、うるさい。
それは無視ではなくそれこそ愛情だからである。
ばかをくりかえして、どこに行けるというわけでもない。

それはコミュニケーションではない。
いわば一方的な、上意下達であろう、それすらも、神経質になぜかわからぬが「民主主義だとか平等だとか、権利だとか言い出す人もいる」

あるスキルでも戦術でも、「こういう階段を昇っていけば、」次第に、高みに上るということで、やっているときに(それが3段の階段か2段かは別に)1段めを踏んで、2段に来るはずのところ、まったくあさって、のほうに行ってしまうのもいるが、そこで選手にコミュニケーションをもって「その間違いを覚らせる」なんてことはしない。
つまりは親切ではないのである。
親切にしても、選手は育ってこない。

では選手はどうしたら選手になるのか?
自分で苦労するから選手になってくるのである。
だから選手「から」「どうしたらよいんでしょうか?というかたちで、口を(コーチに)きいてくれ、というコミュニケーションが、期待されたら」それはおまえ「間違ってる」ということだ。

ほんとうに高い次元での例えば、技術論というようなものを、イチローならイチローは、やってくるコーチと話せるだろうか?という根底的な疑問をおそらくもっているだろう。
ましてや、マスコミの人間と『話せない』という思いに囚われるだろう。

マスコミはマスコミで、イチローなら、イチローの技術論が「おもしろおかしく、書き出せなければ」どれほど深くても、マスには興味のないことだと「切って、捨てるから」そう言う商売だから、もともと接点などないわけである。

未熟な選手以前の選手(ただの人)にはコミュニケーション「より」も不言実行を思いこませるのが良い。

高度な地点に達した、選手はやがて肉体が言うことをきかなくなるなかで(選手としての衰退期)、にさしかかって『口』にたよるようになる、ほんとうは、おのれの肉体で、ねじふせるしかないのがスポーツだから、コミュニケーションもいらないといえばいらないのである、が、社会のなかの存在である以上、ゲームの前、ゲームのあとに、なにか「口をきけ」ということになっている、それで「あーとか、うーとかしかいえない」よりも「気のきいたせりふを決める」ことに心をくだく、そして肉体の衰退時にも、おのれの「苦しみ」が口をついて出る、世間も「そうなのか」と同情するふりをするが、おいおいちょっと待ったである、虚空に消える言葉で、世間を納得させるのも「芸」なのだが、表現は表現として、そそり立つ、人間技の領域である。簡単には手に入らぬ「芸」であろう。

おのれの苦しみを言った「からといって」それが「どうした」とする世の中でもあるわけだ。

呼び出しがあって、夜の1000から銀座でのみ始めた。
喜び組という、例の、表現は夜の街ではギャグとして、少し気がきいた酔客なら、使われたりしている。本来の喜び組がどうだこうだは知らない、知らないが「喜んで、愉しい時間をすごせる」というのも、よいものである。