スポーツ環境

2003年4月21日(月)

4月20日(日)は、日本学園、好カードで、対東京工業大学付属高校と練習ゲームだが、FC杉並が公式ゲームを町田上の原グラウンドで、1400キックオフなので、そちらを優先した。
『今』この瞬間であると、日本学園のチーム整備状況は、3ヶ月ぐらい、FC杉並の先を行っていると思える。

杉並は自分に言わせれば、構造というか環境の弱点がでて、端的に言えばまず「選手が足りない」とくにウイングハーフが2枚、トップが2枚足りない、というように商売人としては、感じる。

その点、4月19日(土)に日本学園は弱い相手だが、都立大付属と東横線都立大駅から、徒歩10分にある、同グラウンドで練習試合をしたのだが、新1年生を3名試して、その3人とも、それぞれ「才能を感じさせてくれた」つまり、春休みの波崎シリーズで(いろいろ感じたが)素材的に、「もはやいっぱい、いっぱいだろう」と感じたいくつかのポジション(日本学園の場合は、トップ1名、ウイングハーフ1名)が「埋まってしまった」というそういう印象を得た次第だ。

ところで、都立大学付属高校グラウンド、土だが、良い環境である。
目黒、世田谷の閑散とした住宅街のなかで、高くて、綺麗なフェンスに囲まれて、「散漫感」がなく、そして、照明完備で、これで、ビジターチームの選手でも利用できるような、ドレッシング・ルームが(むろんシャワーつき)あれば、永遠に、高校サッカーは栄えるだろうに。
なぜなら、Jの下部組織もがんばってほしいが、サッカーを快適にやれるかどうか、そこで、高校とクラブはこれから、競争していくわけだからである。

サッカーそのものは、極端にいえば、泥田のグラウンドでも愉しいといえば愉しい、だが適切な環境、アフターのシャワー、ライト・ドリンクで会話を楽しめる、カフェ・バーそういうものがあって、初めて、スポーツを死ぬまで、自分の生活のなかに「組み込みたい」という思いになるのではないか?

自分の場合その原体験は横浜・山手にあるYC&ACでの体験からもきているし、25歳のころ、今はもう、廃校になってしまったこれも山手にあるセイント・ジョセフ・カレッジでのコーチ体験からもきている。

セイント・ジョセフ・カレッジというのは、山手の丘の外人墓地を右に見て少し進めば、左がにまがれば本牧に降りて行く道のそばにあった、岡田真澄の兄貴のエリックだとか、じぶんがコーチをしていたころは、勝新太郎の息子でのちに、真剣で撮影中人を殺してしまった、息子とかがいたりして、学校の格としては、各種学校であった。

その裏が女子高のサン・モールで、自分たちの世代でいえば、記憶違いでなければジューンアダムスなんてのが通っていた、それこそ当時の日本の水準からいえば、異国そのものの環境であったのである、ただ私がコーチをやったころは、セイント・ジョセフのほうは、他の外国人学校におされて、「では、この子たちの面倒をよろしく」といわれて紹介された選手たちもほとんど、ピーター・ユンとか、いえば中華系、クラウデイォ・マリォとかいえばラテン系ほかに韓国系とかいう感じで、自分が高校3年のときに、そこでゲームをやった、セイント・ジョセフ・チームが、全員アングロサクソンの長身、金髪選手というのとえらい違いであった。

それで最初の日に行ったら、鍵をくれてジムの片隅にケージでかこまれたコーチ用の、ドレッシング・ルームと、シャワールームをくれた。

コーチに人生はどちらにせよ、一所不在である。
そのことは、そういう人生を生きて、もちろんわかったことで、当時は、そんなことは思いもしなかったが、そういう宿命であることを忘れて「この学校のグラウンドがもう少し広ければ」一生、ここで働きたいねと思ったような環境であった、というのは、そうやって「スポーツをやれる環境」イコール「体育をやれる環境」ではない、のが当時のセイント・ジョセフにもあって、かつ、丘を降りれば、横浜元町、中華街である、「負けて、やけ酒を呑むのに、こんな良い環境はないだろう」

さて、ここ3週以上、練習でとりあげているテーマは「ぬけていくパスコースをあわせてやるなら、壁パスよろしい」とでもいう戦術であることは書いたつもりだが、それを別な言い方をすれば、『ボールをもつ選手の前に、スペースがあれば、ドリブルアップしながら』それを、合図に「選手が動きだし」ボールはぬけていく(ラン)の選手の足を止めもしなければ、走らせしすぎもしない、というパスかそれとも壁か、それとも、そのどちらもしないか、の判断ということをやってきた。

土曜日の日本学園は相手が弱すぎるせいもあって、なにをしかけようが、パスは全部通る状態で、私がいつもいう「電柱相手に戦術練習するよりは」良いという状態のゲームであった。

同じことを杉並にもむろん課している。
ただ杉並、今はいろいろとチーム立てなおしの最中で、現に先述したように、ポジション4っつも足りない、奥寺のところと1―3で負けて、もう1度奥寺のところとやって、今勝てるという、自信がないというわけだ。
ただ、白土三平ではないけれど、人の海のなかから、人は消えては、現われる、1年生のなかから、左のウイングハーフが「でてきてしまった」つまりは残りは3ポジションだ。

2トップにまったく人を得ないのだから、ゴールの前まではよくこちらの教えたとおり迫るものの、決定できないで、結局コーナーからの1点で勝った。
町田はクラブでは名門である、だが正直言えば、協会マニュアルに盲目すぎるのではないか?
言うも愚かだが、フラット、フォアチェック、ボールをとったら、ゴール前に放りこんでくるだけ。

上の原グラウンドは早暁からの雨にもかかわらず、フラットで、すばらしいグラウンドであった。
居眠り運転しながら、稲城大橋、中央高速、外苑出口まで走ってきて、あとはビールを呑んで眠った。
(この項終わり)